2014youran-h
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10■新庄まつりの起源 一七五五年、徳川幕府九代将軍家重の時代。大凶作に見舞われたこの地で、犠牲者を弔い、何とか活気を取り戻したいと考えた時の新庄藩主、五代正まさのぶ諶公は、戸沢氏の氏神である天満宮の祭典を、身分や老若男女の区別なく、領民あげて実施することで、それを実現しようとしました。これが、新庄まつりの始まりです。■市民の誇りとして 幕末の動乱期、そして第二次世界大戦中は一時中断したものの、地域住民の一番の楽しみ、そして誇りとして、新庄まつりは脈々と受け継がれてきました。職人ではなく、地域住民が山車を作ること、山車を作る地区と囃子を担当する地区、二つの地区が力を合わせて山車を運行することなど、地域が一体となって運営されるまつりですが、この特徴も、「領民あげてのまつり」を忠実に守ってきた結果なのでしょう。中断した二回、いずれも戦争によりこの地は荒みましたが、ほどなくしてまつりは復活しています。まつりは平和のシンボルであり、復興への力の源である、との思いが地域に根付いていたからかもしれません。市民の活力、市民のまつりとして、今後も後世に伝えていきたいものです。■新庄まつり行事 まつりの期日は、毎年八月二十四日~二十六日と決まっています。このため、まつりの日が休日になるとは限りません。山車(市民は「だし」ではなく「やたい」と呼びます)の引き手である子どもたちも含め、運営には多くの人が必要なこの祭り。平日の開催となっても多くの大人たちは、なんとか仕事をやりくりし、市内の小中学校などは休業になります。当市に転入してきた方などは驚くことでしょう。 さて、数カ月かけて作られた山車は、二十四日の昼ごろから市内を巡リ始め、夕刻、市中心部に集結。そして、観光客に一番人気の、宵まつり山車行列が始まります。二十台の山車が照明を点灯してのパレードで、闇夜に幻想的な世界が浮かび上がります。二十五日は天満宮の例大祭。新庄まつり本まつりの日です。ご神体とそれを警護する人々の行列、神輿渡御行列を先頭に、再び山車の行列が市内を練り歩きます。これら、「新庄まつりの山車行事」は国の重要無形民俗文化財に指定されています。後まつりと呼ばれる最終日には、山形県が無形民俗文化財に指定している、萩野、仁田山地区の鹿子踊が最上公園で奉納されます。それは、領民を思いやる藩主の計らいから始まった…まつり、原点。今から約260年前の江戸中期、大凶作による飢饉で心身ともに疲れ切った領民たちを鼓舞するため、戸沢家5代藩主正諶の命により始まった「新庄まつり」。それは、士農工商の身分の違いを越え、領民すべてが参加するまつりでした。その志は時を越え、神輿渡御行列、山車づくり、囃子、引き手まで、その全てに市民が関わる地域あげてのまつりとして、今も受け継がれています。

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