2014youran-h
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ように書かれていますが、昭和になって発見された「曽良旅日記」に、芭蕉が新庄に2泊したことや、本合海から最上川を舟で下ったことが書いてあり、結果的に、曽良が新庄と芭蕉の関係を初めて立証してくれたことになります。こうしたこともあり、旧本合海大橋のたもとに芭蕉と曽良の陶像が建立されました。陶像の作者は、江戸時代から続く新庄東山焼の五代目涌井弥瓶氏です。 最上川を望む高台で、静かに物思いにふけっているかのようです。氷室の句碑と柳の清水 この地を訪れた松尾芭蕉と曽良は、渋谷甚兵衛(俳号風流)の家に2泊しました。風流は当市南本町に店を構える有力な商人であり、地元俳人たちのリーダー格でもあったそうです。彼は芭蕉らを、兄、盛信の家に招き、地元の俳人たちとともに交流を深めたといいます。盛信の家は、南本町角(今の山形銀行新庄支店付近)にあったそうです。風流宅をたずねた際、芭蕉はあいさつに、「水の奥氷室尋ぬる柳かな」と詠んだといわれています。その後、新庄の俳人グループ雪映舎社中がこの句碑を建立しました。句碑は、昭和63年に復元された、芭蕉ゆかりの「柳の清水」の傍らに立っています。JR新庄駅とゆめりあ 明治36年6月、奥羽南線(今の奥羽本線の一部)新庄駅が開業しました。当時陸羽東西線は開通しておらず、新庄駅は最上のみならず、庄内まで含む広い範囲での、人や物の流れの重要拠点でしたが、大正時代に陸羽西線、陸羽東線が開通すると、鉄道の十字路、交通の要衝としての役割はさらに強まりました。平成11年には、山形新幹線の始発・終着駅となっています。この年に新築されたのが4代目となる現駅舎ですが、駅構内には、蒸気機関車時代をしのばせる、「転車台」や、風情ある赤レンガの機関庫なども残されています。 ところでこの時、最上地域の玄関として、また、訪れる人が憩い、交流できる場として駅舎と一体的に建設されたのが最上広域交流センター「ゆめりあ」です。 多彩な催しなどの会場として利用される「花と緑の交流広場」や「もがみ物産館」をはじめ、レストランやファーストフード店もあり、観光客のみならず、多くの市民にも親しまれる場所となっています。また、JR新庄駅やゆめりあと、東側の駐車場とをつなぐ自由通路にはギャラリーがあります。地域色あふれる作品、子どもたちが作成した作品などが展示されていることが多く、見る人をほっとさせてくれます。 さいたま市にある鉄道博物館には、ゆめりあと一体化した駅舎の模型が展示されています。かむてん公園 山形新幹線新庄延伸の折、最上地域を象徴する新しい空間として、また広域レクリエーションの場として、JR新庄駅東側に整備された公園です。広大な敷地に、芝生広場や親水護岸のほか、屋内多目的施設(愛称:すぽーてぃあ)も整備されています。砂入り人工芝の屋内フィールドで、テニスやフットサルなどの利用で賑わっています。●新庄まつりの起源をたずねて 新庄まつりは江戸時代に発生した大飢饉が原因で始まりましたが、そのことに関連する史跡が市内に残っています。丸仏 未曽有の大飢饉の際、「たくさんの餓死者などを接引寺境内に埋めたが犬やオオカミが掘って食い散らかすので角沢道の柳の木の下に大きな穴若葉町アンダー●県立新庄病院国 道 13 号●イオンタウン常葉陸橋●赤レンガ倉庫東口駐車場●市役所●駅前ふれあい広場 アビエス奥 羽 本 線陸 羽 西 線山形新幹線陸羽東線ゆめりあJR新庄駅笠地蔵通り万場町商店街山形↓↑秋田金の茶釜通り●すぽーてぃあ●かむてん公園駅前通り商店街● 昔語りの  聞こえるみちまちを歩けばタネがいっぱいじゃ!笠地蔵 編笠を売って正月の餅などを買おうと出かけた爺様は、途中でみぞれで濡れている六体の地蔵様を見つけ、売り物の編笠を被せて立ち去る。その夜に地蔵様が爺様の家の前にたくさんの宝物を置いていき、爺様は婆様と幸せに暮らした。鴨取り源五郎 猟師の源五郎は、鴨に空から柿の木に落とされて頭を割ってしまったが、縫った頭から柿の木が成長し、その柿で商売をした。その柿の木を抜かれてしまうが、抜かれた跡にできた沼で鯉を飼って商売。沼も埋められてしまうが、そこが広大な田んぼとなって村の長者様になった。金の茶釜 命を助けてくれた爺様に狐が恩返しをする話。狐が金の茶釜に化けて爺様のもとへ。事情を知らない爺様は、それをお寺に奉納し、和尚様からたくさんのお金をいただいた。

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