2014youran-h
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8戸沢家が築いた礎■藩主たちが眠る場所 新庄藩は、一六二二年に戸沢政盛によって開かれました。常陸国松岡藩主(松岡藩は現在の茨城県高萩市)であった政盛は、出羽地方の大名統制を徳川幕府から命じられてこの地に移り、以降新庄藩は、十一代、二五〇年に渡ってこの地を治めました。 藩政確立のために力を尽くした政盛は一六四八年に江戸で亡くなり、三田の常林寺に葬られました。その後、戸沢家の菩提寺であった当市の瑞雲院に分骨され、今もそこに眠っています。御お霊たま屋やと呼ばれるこの御廟所には、歴代藩主やその正室など総勢二十七名が埋葬されています。また、西山地区の桂嶽寺にも御廟所があります。■新庄城址 最上公園 市民の憩いの場・最上公園は、藩祖政盛が築いた新庄城があった所です。一六二五年に完成したと伝わるこの城は、本丸正面奥に天守櫓があり、周囲は堀と土居で囲まれ、三隅に櫓がある近世的な平城でした。本丸の東側に二の郭、三の郭が設けられて侍町を形成し、その外側に町人町がありました。城は戊辰戦争で失われ、現在は、戸沢神社、天満宮、護国神社が祀られています。五代藩主正諶により始められた新庄まつり行列の出発点、また、春のカド焼きまつり、冬の雪まつりなどの会場にもなっているほか、付近にはふるさと歴史センターや市民文化会館もあり、多くの市民や観光客が訪れます。■新庄の伝統工芸品 当市を代表する伝統工芸品の発祥にも戸沢家が関わっています。 新庄東山焼は、一八四一年に藩の御用窯として開窯、それ以来この地で伝統の窯を守り続けています。「出羽のかげりの色」といわれる「なまこ釉」をはじめ、鉄釉やそば釉など、さまざまな家伝の釉薬を使った陶器が作られています。市内では本合海地区に「松尾芭蕉と曽良」、ふるさと歴史センターに「神室の天狗かむてん」、天満宮になで牛(べこ)など、陶器以外のさまざまな東山焼の陶像も見ることができます。 また、新庄亀綾織は、一八三〇年に九代藩主正胤が、現在の群馬県から技術者を招いて藩の特産品として奨励したのが始まりです。明治時代に、旧藩士救済を目的に機織り指導が行われたこともあって発展しましたが、その後途絶え、幻の織物となりました。一九八五年、これを復活させようと新庄亀綾織伝承協会が発足、亀綾織の基本といわれる「紗綾型」の復元に成功し、その後も次々と二十種類ほどの基本形となる亀綾織を復活して現在に至っています。■戸沢氏が結ぶ縁 戸沢家は、自治体同士の交流にも一役買っています。冒頭触れた茨城県高萩市とは、戸沢家の縁により平成元年に友好都市の盟約を結んでおり、児童交流を中心に交流を重ねてきました。 平成二十五年、戸沢家とゆかりのある茨城県小美玉市、秋田県仙北市、岩手県雫石町を加えた五市町により「戸沢サミット」が茨城県高萩市で開催されました。戸沢家の歴史を顕彰しながら、郷土愛を育み、歴史を後世に伝え、関係自治体の関係強化を目指すもので、平成二十六年度は当市で開催されます。松岡藩4万石から2万石の加増を受けて、新庄藩初代藩主となった戸沢政盛公。城下町の整備や新田開発、鉱山開発などを推し進め、藩政の基礎を固めました。以後、明治を迎えるまで戸沢家がこの地を治めました。今なおこの地に生き続けるレジェンド

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