新庄市市制施行70周年市勢要覧(単ページ)
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□新庄まつりの起源 宝暦5年、徳川幕府九代将軍家重の時代。大凶作に見舞われたこの地で、人々は打ちひしがれ、多くの人が亡くなりました。犠牲者を弔い、何とかこの地に活気を取り戻したいと考えた時の新庄藩主、五代正まさ諶のぶ公は、戸沢氏の氏神である天満神社の祭典を、身分や老若男女の区別なく、領民あげて実施することで、それを実現しようとしました。これが、新庄まつりの始まりです。□市民の誇りとして 幕末の動乱期、そして第二次世界大戦中は一時中断したものの、地域住民の一番の楽しみ、そして誇りとして、新庄まつりは脈々と受け継がれてきました。職人ではなく、地域住民が山車(新庄まつりでは「だし」ではなく「やたい」と呼びます)を作ること、山車を作る地区と囃子を担当する地区、二つの地区が力を合わせて山車を運行することなど、市民・地域が一体となって運営されるまつりですが、この特徴も、「領民あげてのまつり」を忠実に守ってきた結果なのでしょう。戦争により2回ほど中断しましたが、ほどなくしてまつりは復活しています。まつりは平和のシンボルであり、復興への力の源である、との思いが住民の心に根付いていたからかもしれません。市民の活力、市民のまつりとして、今後も新庄まつりという伝統を後世に伝えていきたいものです。□新庄まつり行事 新庄まつりの期日は、毎年8月24日~26日と決まっています。このため、まつりの日が休日になるとは限りません。山車の引き手である子どもたちも含め、運営には多くの人が必要なこの祭り。平日の開催となったらどうなるのでしょうか。多くの大人たちは、なんとか仕事をやりくりし、市内の小中学校は休みになります。当市に転入してきた方などは驚くことでしょう。さて、数カ月かけて作られた山車は、24日の昼ごろから市内を巡リだし、夕刻、市中心部に集結。そして、宵まつり山車行列が始まります。20台の山車が各々に設置された照明を点灯しての巡行では、闇夜に幻想的な世界が浮かび上がります。25日は天満神社の例大祭、本まつりの日です。ご神体とそれを警護する人々の行列、神輿渡御行列を先頭に、再び山車の行列が市内を練り歩きます。後まつりと呼ばれる最終日には、山形県が無形民俗文化財に指定している、萩野地区、仁田山地区の鹿子踊が新庄城址で舞われます。「新庄まつりの山車行事」はユネスコ無形文化遺産として登録されています。市民が守り、つくり、育てた    世界に誇る山・鉾・屋台行事

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