matsudajinjiro
11/16

 義農松田甚次郎の34歳の短い生涯は、あたかも宮澤賢治の化身のごとく苛烈をきわめた。甚次郎は、冷害と旱魃に追い詰められた東北農村の中にあって、協働、扶助の精神を携え、どこまでも農の人・地の人として、ひたむきに生き抜いた。多くの常雇人をおいて水田、山林経営に携わる集落一番の旧家であり、大地主でもあった松田家の長男として甚次郎は生を受けた。甚次郎の生き方を決定づけたのは、賢治との運命的出会いである。花巻農学校を辞職した賢治は、「もっと明るく生き生きと生活する道」を探すために、「羅須地人協会」を創設して、祈りにも似た思いで農民の暗い凄惨な生活のただ中に入っていった。賢治は村民に対する稲作指導、肥料相談、楽団演奏、童話の朗読会、芸術談義などを通して、懸命に農の芸術と生活の調和を願う理想に情熱を傾けていた。それは、甚次郎にとって農村生活を真に豊かにするための、農の人として生きる人間の取るべき態度、生き方を示唆するものであった。 また、日々の農の生活の中に、人と人とを結びつけ、歓喜を共有して生きる芸術・芸能の価値についても深い啓示を受けた。大地主の跡取りでもあった甚次郎は、盛岡高等農林学校農業別科を終了するとただちに帰村し、尋常ならざる覚悟をもって「小作人となる」と父に告げ、家の面子などを無視して6反の田地を借り受け、小屋を建て羊を飼いながら水利劣悪な水田とともに、小作農として自給自立の道に踏み出した。農村演劇を手作りで上演するほか、農村青年グループ「鳥越倶楽部」、農村塾「最上共働村塾」を開設し、救農の理想を掲げ疲弊した農村の生活改善、女性の保健厚生運動に尽力した。その実践記録『土に叫ぶ』を出版し、全国に感動をもたらした。こうした甚次郎の活動の下地には、賢治が岩手国民学校で教えるため準備した「農民芸術概論要綱」の各節が深く浸み入っていたのである。   「芸術をもてあの灰色の労働を燃せ…      われらは世界のまことの幸福を索ねよう…         世界がぜんたいが幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」『協働、扶助の精神を携え、   どこまでも農の人・地の人として』渡部泰山 1950年(昭和25年)生まれ、新庄市出身(真室川生まれ)。県立新庄南高等学校長、県教育次長、県立山形東高等学校長など歴任。現在、山形大学大学院教育実践研究科大学院・教授。自ら大原螢(ほたる)の筆名で評論活動も行い、東北の芸術文化を研究した多くの研究論文・著作を発表。評論『東北芸術文化の水脈』で第27回「真壁仁・野の文化賞」を受賞。 その創作活動は、文壇にとどまらず、1990年、地元新庄で劇団「東北幻野」を旗揚げし、主宰者、作家、演出家として活躍。2013年には、本県出身やゆかりのある作家の作品を展示する「アトリエ・山形現代美術館」(入館無料)をオープンさせた。

元のページ 

10秒後に元のページに移動します

page 11

※このページを正しく表示するにはFlashPlayer10.2以上が必要です