matsudajinjiro
12/16

 地方創生の時代といわれる昨今、甚次郎の実践には学ぶべきたくさんの斬新なヒントが提示されている。第一に、仲間と「鳥越倶楽部」を作り、宮沢賢治の指導を受けて、神社境内の裏に土舞台を作り、手作りの芝居を行ったこと。厳しい農村の生活に芸術的な夢と楽しみを見出そうとするものであった。第二に、金肥を廃し、し尿や枯葉による有機農業を実践、麹室を建て甘酒、醤油や味噌を醸造、缶詰やホームスパン等を手作りし、消費組合を結成して日用品を安く購入するなど、浪費を抑えて徹底した自給自足運動を展開、併せて里山を活用する山岳立体農業に取り組んだこと。第三に、賢治の羅須地人協会を手本に、昭和7年に最上共働村塾を仲間と立ち上げ、全国の農村青年を集い、授業料も教科書もいらない人格主義の実践教育を行ったことである。幕末の吉田松陰の松下村塾にも匹敵する子弟同学同行のこうした甚次郎の学習活動は、恩師賢治さえ成そうとして成しえなかったことであった。 さらに、賢治とは異なる甚次郎独自の実践がある。村の女性の愛護運動を展開し、女性を同志として育て共に活動したことである。「鳥越倶楽部」に「女子部」を結成して盆踊りを復活させ、禁酒禁煙運動を展開、母の会、敬老会を女子の自治活動として支援、さらに当時女性地位向上運動で全国的に有名な住井すゑの紹介で、茨城から助産婦の増子あさを鳥越に招き、「出産相扶会」を作ったこと。また隣保館を建設し、増子や県の協力のもと「農繁期託児所」「共同炊事場」「共同浴場」を建設して、「娘地獄」と言われた村の娘や過労に追い詰められている農村婦人を生活の根底から助けようとしたことである。まさに、女性地位向上と男女参画運動の県内における最初の実践でもあった。東北の農村生活を支え、貧困の最底辺で苦しむ農村婦人の地位と暮らしを救済することなしに農村の改善はないとする、甚次郎の優しい気質とフェミニストとしての思想の実践である。逆にまた、甚次郎の生涯を振り返る時、睦子夫人や吉田コトはじめ多くの優れた女性との出会いが彼の実践を助けている。ちなみに、甚次郎の誕生日が明治42年3月3日、女性の節句の日であったことも興味深い。 甚次郎のこうした活動は戦中の混乱と戦後社会の変化の中、戦中の満蒙開拓の推進者という漠然とした評価の中で忘れ去られていくが、実際の彼の視点は、郷土の自然大地と農への愛情から生涯離れることはなかった。反省すべき点は見つめつつも、同じ郷土に生きた先人として、その生き方と願いにこめられた甚次郎の叫びに、私たちはもう一度耳を傾ける必要があるのではないだろうか。『松田甚次郎〜故郷の土に夢を燃やして』近江正人 1951年(昭和26年)生まれ、元県立新庄南高等学校長。日本現代詩人会員、「山形詩人」同人、新庄市社会教育委員、新庄市子ども芸術学校実行委員長。 2000年と2010年に公演した松田甚次郎の生涯を描いた野外演劇・朗読劇において脚本・演出を担当した。著作活動としては主に詩作を中心に多くの詩集を発表。「山新詩壇」年間賞並びに全国詩誌「詩学」新人推薦。2013年、京都国民文化祭現代詩部門入賞。 その他の活動として、県立霞城学園高、神室産業高校、村山産業高校、戸沢村立戸沢小学校、新庄市立萩野学園等における校歌作詞等も手がける。甚次郎が遺したもの

元のページ 

10秒後に元のページに移動します

page 12

※このページを正しく表示するにはFlashPlayer10.2以上が必要です