matsudajinjiro
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 山形市在住の齋藤たちきさんは、専業農家のかたわら、詩人にして野の思想家と呼ばれた真壁仁に20代から師事し、評論の中で以前より松田甚次郎を取り上げ、その人間像と魅力を伝えてくれています。その齋藤たちきさんを訪ね、齋藤さんの“甚次郎観”についてお聞きしました。○たきちさんにとって、松田甚次郎はどのような存在なのでしょうか? ただ大地を耕すだけでなく、新庄という場所に住む人が誇ることができるよう、そういった営みを残せた素晴らしい人だと思う。 百姓とは百の姓と書くように、農業を通して、何をどう収穫するか、儲けようかということだけでなく、文化、芸術など、この世にある全てのものに興味・関心を持って生きることが百姓の生き方であり、甚次郎にも共通していたことだと思う。今の人はコメや野菜を物としてしか見ていないが、生き物としてコメや野菜から学び、豊かに生きていくことが大事である。そういったことを今は忘れてしまっており、貧しい時代になってきたと感じている。○甚次郎が実行していたことにどんな意味があったとお考えですか? 国の中央では新しいことをどんどんしても周囲は何も関係ないが、村ではその人の生き方が村中の注目を浴びることになるし、それに耐えていくことはとても大変なことである。もし、甚次郎が都会で生きていたならば思想家として評価されたかもしれないが、農民のほとんどが甚次郎をあまり理解できない中で、苦悶しながら足を踏ん張ってきたことはとてもタフなことだったと思われる。新しい生き方を新庄の中で作り出そうとした苦悶から何を学ぶかということが大事だと思う。 今は「土に叫ぶ」といった表現を使う農家はいないのではないだろうか。甚次郎には土は人間とイコールであるといった考えがあったと思う。さらに具体的に言えば、無二の親友、自分を生み育ててくれた父親・母親といった存在と同じと考えていたように思える。○松田甚次郎という人物は、たきちさんの生き方にどのような影響を与えていますか? 確かに人間はそれぞれだが、生きるということはただ自分のために生きるのではなく、皆と共に生きるということである。若いから関心があるということでなく、死ぬまで色々な事に関心を持つこと、自分を耕すということ、そういった生き方が大事である。 真壁仁先生や松田甚次郎は、人間として最も豊かに根源的な生き方を残してくれた。そういう存在であると思っている。『新しい生き方を新庄の中で作り出そうとした苦悶から、何を学ぶかということが大事だと思う』齋藤たきち 1935年(昭和10年)2月、山形県南村山郡柏倉門伝村(現在、山形市門伝)に生まれる。 複合専業農家のかたわら、詩人にして野の思想家と呼ばれた真壁仁に20代から師事し、詩作、評論を執筆。農民文学懇話会「地下水」同人。 著書『北の百姓記』(2005年)、『北の百姓記・続』(2006年)、『わが出会い人と本』(2009年)や、『みちのくの農 その風景について』(1996年)、『富神山ある風景の序章』(2014年)など。『北の百姓記』(2006年)で第22回「真壁仁・野の文化賞」を受賞。

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