matsudajinjiro
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一.小作人たれ  二.農民劇をやれ宮沢賢治 1896-1933 花巻市生まれ。盛岡中学、盛岡高等農林学校卒。1922年花巻農学校教諭。1924年、心象スケッチ『春と修羅』、童話集『注文の多い料理店』刊行。1926年羅須地人協会設立。農民の生活の向上のために尽くすが、急性肺炎のため37歳で永眠。 ●●●●●13474713最上共働村塾跡土に叫ぶ碑サイロ跡鳥越隣保館跡初代最上共働村塾跡山形新幹線尾花沢新庄道路新庄北道路新庄南バイパス土舞台新庄IC新庄駅生家山形→←秋田酒田↓×資料提供 進学した盛岡高等農林学校の卒業を間近に控えた甚次郎は、岩手日報社夕刊に掲載された「新しい農村の建設に努力する花巻農学校を辞した宮沢先生」という見出しにはじまる記事に感銘を受け、賢治のもとを訪れます。「黙って十年間、誰が何と言おうと、実行し続けてくれ」 賢治は小作人を「国に食料を供給し、あらゆる奉公と犠牲の限りを尽くしている偉大な存在であるにも関わらず、真の理解と誠意を持つものは1人もいない」存在であると嘆きながらも、社会の文化が進んで行くにつれ地位が向上されることを信じていました。 そして甚次郎には、真の小作人となることの大切さを説いたのでした。 また賢治は、農業者の生活は農耕や日々の行事が芸術そのものであるとし、農民劇は単に娯楽を与えるというだけでなく、実現すれば、農村も農家も楽しく美しい日々を送ることができ、村の経済も文化も向上するだろう、とも考えていたのです。 甚次郎は賢治の言葉を、生涯胸に刻みつけることになります。(松田甚次郎著「土に叫ぶ」より抜粋)

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