matsudajinjiro
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 甚次郎は、農業恐慌により疲弊していく村の生活を守るために、自給自足的農業経営を実践、村に消費組合などを組織するとともに、禁酒や婦人の地位向上運動などに力を注ぎました。そんな彼の活動を知った青年たちが全国各地から集まりはじめます。 そして昭和7年、元営林署の荒れ果てた番小屋を借りて塾舎とし、「地名の最上(もがみ)にちなみ、且つ世にも最上(さいじょう)となる村塾としよう、そして我等の共に働くことから出来た」ということから、最上共働村塾と名付けられました。その後、新しい塾舎の建設、休止等を経ながらも、甚次郎が亡くなるまでの12年間、農村更生を志す若き農業青年の育成にあたりました。最上共働村塾最上共働村塾跡地にある「土に叫ぶ碑」自給自足的農業経営を目指して甚次郎が作った「サイロ跡」1933(昭和8年)1934(昭和9年)1935(昭和10年)1936(昭和11年)1932(昭和7年)鳥越隣保館を設立最上共働村塾が2カ年の長期塾に共同炊事場設置共同浴場設置最上共働村塾設立

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