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新庄の言い伝え平成25年5月10日号(No.665) ■編集・発行/新庄市 総務課 〒996–8501 新庄市沖の町10–37 TEL.0233–22–2111 ■制作・印刷/共栄印刷株式会社 14,000部発行広報05文字を見やすくしました本文にモリサワユニバーサルフォントを使用しています。佐さ吉きち爺じいに聞く新庄には、今でも多くの言い伝えが残っています。「言い伝え」は、日常の生活の中で綿々と伝えられてきた、先人の生活の知恵。今も残るさまざまな「言い伝え」を、季節の行事とともに佐吉爺が紹介します。文・伊藤佐吉さん(仁田山) 五月は皐さつき月というが、三年続きの大雪で、雪消えが少々遅れ、田植えもその分遅れるかと思っています。 大雪でも季節は着実に進む。柳は青々と、里山の木々も芽吹きだす。山桜やブナの芽吹きが一番早いので、山の下から青くなってだんだんと上も色づきだす様を、「ブナ木の山峯越」と言ったものだ。また六月になると冷たい雨が降って少々寒くなるが、この季節を「ナラ木の底冷え」と言った。五月下旬には山は春紅葉になる。秋の紅葉も良いが春も良く、辛こぶし夷の花が沢山咲いた年は米や大豆、農作物が豊作と言った。 新庄の春は花見とカド焼き。昭和五十三年、爺は最上地域史研究会に入会し、今は亡き笹喜四郎先生にカド焼きのはじまり話を聞いたことがある。明治三十年ごろ、桜咲く五月の休日に、若者たちが姉子山と呼ばれる少々高い場所に、酒や煮しめを持ちこんで花見をしていたそうだ。そこは町を見下ろせる良い所であったが、明治三十六年に鉄道駅舎を作るのに姉子山の場所が良いと、山を崩して駅を作った。駅ができると、それまで水田だった所が沖の町(水田が広がる様子が海の沖のようだと金沢沖と呼ばれたのが町名の由来とも言われる)に変わった。そして道路が作られ、店も立ったのである。大正四年には鉄道が酒田までつながり、生魚が売買できるようになった。すると若者たちは生ニシンを一匹焼いて、お城の桜に合わせて花見をはじめた。これが始まりだそうだ。 五月二日は八十八夜、別れ霜と言った。朝晩も暖かくなるので、農作物の移植や種子をまいても良い季節である。農家は田植えの準備に一生懸命。五月は特に、代かき作業だった。〝水も流るる小雨降る、   馬の尻追って代をかく。  ツバメが二、三羽飛んでくる。〟 五月には男の子のお祝いもある。爺の家では正月七日、七草汁、三月三日の上じょうみ巳は女の子節句(おひなまつり)、五月五日は端午の節句。七月七日は七夕、九月九日は重陽節句とお祝いした。 また、晴れ間をみて冬の間のすす掃きもした。昔は清潔法という法律があって、決められた日に一斉に各家の大掃除をした。役所の人が回ってきて、家々に清掃済みの札を貼っていった。すす掃きは大変だが、昔から囲炉裏は家族のよりどころで、火が呼び、結びつけ、家族の生活の中ゆるり心とも呼んだ。電気がない時代は炊事、暖房、照明と、囲炉裏が大切であった。「火のそばと女のそばが夏土用いつでもよい」ということわざもあった。〽遠山に残雪見ゆる田畑で   鍬取り振るふ我らが青年昔からの訓え其の八「花見とカド焼き」の巻▲カド焼きまつり会場の写真(昭和57年5月/佐吉爺撮影)

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