2013koho06
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8辰響を受けて考え方は新政府軍寄りだったと思われる。正実は、慶応四年三月二十一日に江戸から新庄に帰る。続いて夫人や桃令院も帰国するが、そこから急速に戦乱に巻き込まれることになり、そのありさまを時系列で追ってみる。巷では、会津藩、新島八重を主人公としたドラマが好評を博しているが、会津戦争のように激烈ではないにしても、当新庄藩も戊辰戦争の渦の中に飲み込まれ甚大な被害を被ったという歴史的事実がある。仙台伊達、庄内酒井、米沢上杉、秋田佐竹と大藩に囲まれた当藩は、必死に生き延びようと対策を取り、最終的には、勝ち組になるが、そのために払った犠牲も大きく、その後の新庄の発展にも影響を及ぼすことになるが、「新庄藩戊辰戦史」(常葉金太郎著)や「新庄市史第四巻」などを参考にして、今月と来月号で、そのいきさつを紹介していく。ま さざ ね戊辰戦争とは 慶応四年(一八六八)一月に起きた鳥羽・伏見の戦いから明治二年(一八六九)五月の函館戦争までの王政復古を経て、明治政府を樹立した新政府軍と旧幕府勢力および奥羽越列藩同盟が戦った内戦をいう。慶応四年の干支が戊辰の年に当たるので、この名称が付けられた。江戸城無血開城後、新政府軍の標的は、会津と庄内に向けられ、おのずと新庄藩は、戦争に巻き込まれていく。新庄藩の被害 新庄城は、武器櫓やぐら・大納戸櫓・天満宮を除いてほとんど焼け落ち、侍屋敷や城下の町人町もほとんど焼き尽くされた。その他、激戦地となった仁間・福田・松本・飛田・古口・及位なども壊滅的な打撃を受けた。 この戦争での戦死者は、政府に届けられた記録では、五十二名となっているが、身分の低い者などは入っておらず、戦争に巻き込まれて命を奪われた数は、これをはるかに超していることは疑いないと「新庄市史」で述べられている。時の藩主 戸沢正実 戸沢正実の父は、三十歳の若さで早逝した正まさよし令で国学者、母は、島津家から輿入れした貢こうこ子(桃令院)、家督を継いだ時は十一歳だったが、戊辰戦争時は、三十六歳で、父母の影そのとき、 藩主戸沢正実は第11代新庄藩主戸沢正実公◦その一 慶応四年四月二十六日  奥羽鎮撫総督の派遣◦その二 慶応四年五月十五日  清川口の合戦◦その三 慶応四年五月二十五日  勢いづく庄内勢◦その四 慶応四年六月一日  奥羽超列藩同盟成立◦その五 慶応四年六月十九日  沢副総督の逃避※詳しくは左頁参照。日付は旧暦を現在の日付に直したものです。 小藩である新庄藩のドタバタ振りはいかほどのものだったか。 奥羽越列藩同盟の一員を装ったり、沢副総督の秋田への退去を手伝い「しばらくは同盟の一員として振る舞え。そのうち官軍側も計略を巡らすから承知しておけ。」といわれたりで、この曖昧な態度が新政府からも同盟からも疑われる原因となった。新庄市の歴史・戊辰戦争Ⅰ

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