2013koho06
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争慶応4年4月26日 新政府は、奥羽諸藩鎮圧のために、奥羽鎮ちん撫ぶ総督に左大臣九条通みちたか孝を、副総督に公家の沢為ためかず量を任命して仙台に派遣した。そこで、新庄藩は、総督から庄内征討を命令される。(5月3日付)その一慶応4年6月19日 新庄藩の奥羽越列藩同盟への参加をうけ、沢副総督は、新庄を捨て秋田へ逃れることになる。その五▪揺れる藩論▪新庄藩の裏切り▪新庄城落城戦▪藩主の秋田落ち▪庄内藩の新庄占領▪秋田戦争▪庄内藩降伏▪その後の新庄次号予告慶応4年6月1日 白石会議を経て、東北25藩、越後6藩による奥羽越列藩同盟が成立して、新庄藩も加わることになる。これは、反新政府同盟であり、新庄にいる沢副総督に敵対する行為であった。後に、この加盟は本意ではなく、小藩ゆえに仕方なく加盟したものだと弁明している。その四慶応4年5月15日 清川口合戦 沢副総督一行が新庄入りをし、翌朝には、庄内領に近い腹巻岩に陣を構え、清川口合戦が始まった。 450人ほどの薩長兵が、銃を撃ちながら立谷沢川を超えて清川村に侵攻した。庄内勢も警戒はしていたが、あまりに突然の襲撃に、退いて御殿林で防御するのみだった。激しい銃撃戦だったようで、防御地となった御殿林のすべて杉に弾丸が食い込んでいたといわれている。しかし、正午ごろに傾勢は逆転して薩長軍は腹巻岩の陣を捨てて撤退した。新庄藩は、全面的には参加しなかったが、装備も旧式、銃の撃ち方も、戦い方も知らないことを薩長の隊長から笑われたという。その二慶応4年5月25日 清川口の合戦に勝利し、勢いづいた庄内勢は、迂回して六十里越※を経て、村山に侵攻して天童城が焼かれるということが起きるが、新庄までは至らず庄内勢の引き上げにより一旦落ち着く。※六十里越:鶴岡から湯殿山南側を通り山形へと続く街道。その三鳥海山蔵王山月山最上川秋田盛岡仙台山形福島新庄仙台藩米沢藩庄内藩秋田藩新庄藩

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