2013koho07
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先月号では、奥羽越列藩同盟の結成までの新庄藩の動きを紹介した。後編となる今回は、いよいよ新庄藩に戦火が及んだ戦いと、その末路を紹介していく。先人たちが、大藩の波にもまれながらも必死に新庄のために戦った様を想像してほしい。新庄城炎上、落城、 秋田落ちからその末路。新庄市の歴史・戊辰戦争Ⅱ坂峠で迎撃する体制を整える。その中には、新庄藩兵もいた。八月二十七日早朝に院内から羽州街道に沿って進んだ官軍により及位口で合戦が始まる。同盟側の激しい応戦で官軍は一時撤退するが、他の二方向から攻めてきた官軍が、同盟軍の背後を突くことになり、森合峠に陣を布いていた仙台藩隊長梁川播磨ら仙台藩士が壮絶な最期を遂げるなど、同盟側は総崩れとなり逃れることになる。 前線を守っていた新庄藩が、突然裏切って官軍を無抵抗で引き込んだことが同盟軍敗退の最大の原因となった。新庄城落城戦 官軍の新庄領入りを知って、酒井吉之丞を隊長とする庄内藩第二番大隊と白河口応援に向かった第一番大隊も戻ってきて舟形に集結する。官軍は、そのことを知り、八月二十八日深夜に新庄城下に入り、即刻新庄藩に対して舟形口への出兵命令を下す。そして三十日朝七時頃、庄内勢との本格的な戦いが舟形口で始まった。この戦いは、新庄城落城、藩主の秋田落ちという決着で新庄藩と官軍の敗戦に終わる。激動の一日となったこの日の落城戦の経緯は、左頁上図の通りである。揺れる藩論 副総督軍が秋田へ去った翌日(八月八日)早朝、庄内勢が最上川に沿って古口に攻めてきた。ここを守っていた新庄藩は、これに抵抗せず、副総督軍が駐留していたので仕方なく警備していたのだと弁明したため、攻撃が中止され両藩の国交は回復する。この間、友好関係になった庄内藩の仲介で洋銃二百挺を購入したが、後に裏切りに使用されたため荘内藩は大いに悔しがったという。 その後、白河城が落城、長岡城も落城の危機にあった七月初旬、米沢藩から越後口を守るための援軍の要請がある。ここで新庄藩の藩論が、同盟側の要求を飲むか、副総督への義理を果たすかで二分する。結局、七月六日に援軍が出発するが、突如藩主の命令で、尾花沢から引き返すことになる。危機が迫っているのでという理由だったが、最初からの作戦という見方もある。新庄藩の裏切り 秋田領への進撃を図っていた同盟側は、秋田藩が同盟を離脱して官軍とともに新庄奪還を目指していることを知り、米沢・仙台・庄内などの諸藩の兵が雄勝峠や主寝6

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