2013koho07
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舟形南新庄新庄泉田升形羽前前波1347474713458新庄市最上川尾花沢新庄道路山形新幹線④仁間・福田の合戦(正午頃から) 福田院裏手の坂の上や、仁間と松本の東側に陣取った庄内勢と、飛田村や片原町に再集結した新庄勢や官軍が対峙した。午後2時頃に起こった、壇下から升形川にかけての壮絶な白兵戦は、「壇下の切り合い」として語り継がれている。その後、庄内勢のすさまじい攻撃に官軍は、ずるずると後退することとなる。③角沢口の合戦(午前11時頃) 角沢八幡神社に敵をおびき寄せる陣を敷いて60人ほどで待ち構えていたが、舟形から長者原を迂回した庄内勢の大部隊が田んぼの中を福田方面に進んだため目論見が外れる。わずか一隊だけが敵と遭遇して角沢村に追われ、村は、ほとんど焼き払われた。新庄藩隊長納おさめ三之丞は、庄屋大場家で、敵の万年寅吉に切り殺されて首を取られるが、その時の刀の傷がついた敷居が今でも残っている。激動の一日 〜慶応4年8月30日〜辰戦争②鳥越庚申塚の合戦(午前10時頃) 官軍側は、庚申塚に大砲を据えて待ち構え、庄内勢が現れると一斉に銃砲撃したので庄内勢は大混乱し、多くの死傷者を出して退却する。落城戦唯一の勝ち戦だった。⑤庄内勢、城下及び城内に侵入(午後3時から) 金沢円応寺に放火されるのを始めとして、庄内勢は松本松枝方面に、金沢街道を放火しながら進む。午後3時過ぎに場内開門の触れがでて総引き上げが始まる。午後4時頃、飛田に火が上がり、庄内勢は南門から城内に侵入。午後5時頃、城郭は炎上する。奥殿では、老齢81歳の尾形与左衛門が、見事な切腹で果てていた。①舟形口合戦(午前7時頃) 小国川をはさんでの銃砲戦が始まる。新庄藩にとって初めての本格的な戦いで、山手に陣取り地形的に有利な展開だったが、一ノ関から迂回した庄内勢に背後から攻められて白兵戦となった。新庄藩隊長が討ち死にするなど、形勢が逆転し、庄内勢全軍は一気に小国川を渡ってくる。秋田領から撤退を始める。庄内藩降伏 十一月八日、会津藩が降伏すると庄内藩も秋田領から完全に撤退し、十一月十一日、降伏の調印をする。降伏の条件は賠償金だけという黒田清隆の寛大な処置は、一緒にいた西郷隆盛の発案だったいわれ、庄内は西郷の恩に感謝し、以後、緊密な関係になる。官軍の新庄は焦土と化し、賊軍の庄内は無傷という皮肉な結果となる。藩主正実は、十一月十四日、新庄に無事に戻る。その後の新庄 新庄城下は焼け野原となった。新庄復興を手掛けようとした藩主正実は、明治四年の廃藩置県により新庄藩が廃止となったことにより、その途上で東京に移り住む。 新庄城落城の十年後に訪れた、イギリスの女性旅行家イザベラ・バードが、新庄の印象について「新庄は人口五千を越えるみすぼらしい町で、」と書いている。未だ復興半ばの状態だったのだろう。ただ、新庄まつりは、明治二年に天満宮の神輿が新調され、翌年には祭礼が行われている。まさに世直しのまつりといわれる所ゆえん以だろう。 (完)藩主の秋田落ち 庄内勢が新庄城間近に迫っていた頃、藩主正まさ実ざねは、宮内丁外れまで出馬したが、敵の銃弾が同町に達し危険が迫っていたので引き揚げ秋田に逃れる。藩主一行は、歴代藩主らが眠る御おたまや霊屋参詣後、羽州街道を北上するが、その途中、藩主の馬標である三さんがいがさ階傘(市指定文化財)を泉田八幡神社に預けていく。庄内藩の新庄占領 新庄城落城から十一月七日までの二カ月余り、新庄領は庄内藩の支配下に置かれたが、意外と行き届いた政治がなされたことで在町役人達も敵の命令に服従したようだ。しかし中には、面めんじゅうふくはい従腹背の傾向もあったようだ。秋田戦争 八月三十一日、秋田に逃れた官軍を追って庄内勢が秋田領内深く侵入する。庄内勢の銃などの装備は、本間家の財力による支援で、東北諸藩一であったため秋田・新庄藩を含む官軍は苦戦して秋田久保田城近くまで攻め込まれる。しかし、十月二十二日、米沢藩に続いて仙台藩が降伏し、同盟は壊滅状態となり、庄内勢は十月三十一日に7広報07

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