2013koho08
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4 新庄まつりの起源 新庄まつりは、西暦一七五六年(江戸中期の宝暦六年)、時の新庄藩主戸沢正諶公が、前年の大凶作の犠牲者を弔い、その年の豊作を祈願して始めたものです。幕末の戊辰戦争と第二次世界大戦で一時中断しましたが、すぐに復活し、この地に住む人々の楽しみ、そして誇りとして受け継がれてきました。身分や老若男女の区別なくすべての人が参加する祭りは、その形態を大きく変えることなく現在まで続いているのです。 地域で守り育てる伝統文化 祭りのとき、囃子に合わせて自然に体を動かす小さい子を見かけることがあります。とてもほほえましい光景です。小学生くらいになると、山車の制作や運行、囃子の演奏、荒小屋や月岡地区などでは神輿渡御行列に参加する子どももいます。 こうした、子どもと祭りの関わりは、やはり家庭や地域の影響が大きいものと考えられます。親などに影響されながら、仲間同士で、ごく自然な形で「新庄まつり」という伝統文化に触れ、そしてその担い手となってきたのです。 百年後の未来に向けて 昨年度、関係団体や有識者により、「新庄まつり百年の大計」の第三期計画がまとめられました。新庄まつりを次代へ引き継いでいくための「総合的な祭り振興策」として、平成五年から、十年ごとに見直して新たな計画を策定しています。 今計画では、人口減少などの社会情勢の変化に伴う担い手不足への懸念から、伝統を引き継ぐ後継者育成を重要視しています。地域に根ざし、世代を越え、市民の創意や努力によって守られてきたこの文化を次世代へ引き継ぐこと。江戸時代から今日まで、時代や社会の変化を乗り越えて受け継がれてきた「二五七年の歴史と誇り」を百年後の未来に伝えること。これこそが、今この地に住む私たちにとって重要ではないでしょうか。 平成八年、泉田地区で囃子をやらないかとの話があり、「囃子をやるようになればさらに地域が盛り上がるだろう」と考え、準備をはじめたそうです。短期間に人を集め、技術も一定レベルに達する必要があって大変だったそうですが、「やって良かった」と箱山繁さん。息子の稔さんも祭りが好きで、中学生になると自然に囃子をはじめ、孫の瑛えいた大くんにもぜひ囃子をさせたいと思っていたところ、祭り好きになったそうです。 若連については、「地域における青少年育成の場であり、地域の良さを再確認する場」と考えているそうで、「少子高齢化により組織の維持も難しい世の中になっていますが、関係各所が連携して、この伝統を維持していかなければ」と話してくれました。萩野・仁田山鹿子踊り伝説(落合町若連)技と誇り ぞれの思い地域を盛り上げるもの。地域を守る若者を育てるもの。新庄囃子

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