2013koho10
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にみる庄の今と昔4 戊辰戦争で最も激戦となった「壇下の切り合い」は現在の福田院裏、新庄西部幹線農道沿いあたりがその舞台となった。角沢村を焼いた庄内勢はそのまま北上し、現在の升形川沿いに最終防衛線を敷いた新庄勢と激突する。現在の新庄中核工業団地付近から福田までが戦場となり、敵味方入り乱れての激しい白兵戦となった。 この時、後方に布陣した新庄藩の発砲があたかも前線についた味方の肥前藩を撃つような形に見える場面もあり「新庄藩の裏切り」と疑われるほどの混乱だった。 総崩れとなった新庄勢は宮内へと敗走し、勢いづいた庄内勢は、川を越え飛田村に火をつけながら新庄城へと進軍していった。福田院裏手 壇だんのした下の切り合い福田(新庄西部幹線農道沿)❹ 新庄勢は舟形長者原方面から進軍してくる敵に備えて、ここ角沢八幡神社に集結するも、敗戦する。その後角沢村の家々は1軒を残し全て焼き払われた。角沢八幡神社角沢村防衛線新庄市角沢字本楯❷ 新庄藩隊長納おさめさんのじょう三之丞は、角沢の庄屋大場家で休息中に、庄内藩士万まんねんとらきち年寅吉と切り合いになり倒される。その時の刀傷がついた敷居が今も大場家に残っている。❸角沢旧庄屋大場家今も残る激戦の跡大場英一さん所蔵 戊辰戦争における新庄城防衛線で、唯一の勝ち戦がこの鳥越庚申塚戦線だった。 舟形方面から新庄城に向かって北進してくる庄内勢に対して、前日夜から陣地を構築していた官軍側は、十分に敵を引き付けた上で銃砲撃を行った。これにより庄内勢は多くの死傷者を出し大混乱のうちに退却していった。 この後、大谷地方面から来た庄内勢の別働隊をも撃破し、羽州街道を守り切ったのである。この防衛線を突破するのは難しいと考えた庄内勢は、角沢方面に進路をとっていった。 当時、鳥越村の南端にあった庚申塚は、現在鳥越地区の中間あたりにあり、今もその歴史を伝えている。❶鳥越庚申塚 鳥越(山交バス鳥越上バス停付近)新庄城防衛戦唯一の勝ち戦

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