2013koho12
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4■生い立ちと出会い 松田甚次郎は明治四十二年三月三日、市内鳥越の自作兼地主の裕福な農家に長男として生まれました。そして日新小学校を卒業後、村山農学校を経て大正十五年に盛岡高等農林学校農業別科に進学します。在学中の大正十五年四月一日岩手日報朝刊に掲載された、羅らす須地ちじんきょうかい人協会設立に寄せて宮沢賢治が語った記事を見た甚次郎は、卒業間際の昭和二年三月に賢治を初めて訪ねます。その時、賢治から「小作人たれ」、「農民劇をやれ」という二つのことを諭されたといいます。感銘を受けた甚次郎は賢治の教えを信じ、小作人として生きることで農村振興を図ろうと決意したのです。松田甚次郎の生涯3月3日、稲舟村(現新庄市)鳥越の旧家の長男として誕生日新小学校卒業村山農学校入学盛岡高等農林学校農業別科に入学特集郷土の偉人1909(明治42年)1923(大正12年)1926(大正15年)※写真は土舞台で上演された甚次郎の生涯を描いた朗読劇宮沢賢治(1896-1933)花巻市生まれ。盛岡中学、盛岡高等農林学校卒。1922年花巻農学校教諭。1924年、心象スケッチ『春と修羅』、童話集『注文の多い料理店』刊行。 1926年羅須地人協会設立。農民の生活の向上のために尽くすが、急性肺炎のため37歳で永眠。 資料提供小作人たれ、農民劇をやれ松田甚次郎1909-1943■最上共働村塾の設立 村に帰った甚次郎は、父に六十アールの田を借り小作人となります。同時に、村の青年を集めて鳥越倶楽部を結成し演劇活動を始めます。彼らは、鳥越八幡神社に自分たちで土舞台を築き、三十六回もの上演を行いました。 また、甚次郎は、農業恐慌により疲弊していく村の生活を守るために、有機農業を主とした自給自足的農業経営を実践、村に消費組合などを組織するとともに、禁酒や婦人の地位向上運動などに力を注ぎました。これらの甚次郎の活動は当時あまりにも型破りだったので、一部の人々には、左翼的危険思想の持ち主と疑われました。 その一方で、彼の活動を知った昭和の初め、宮沢賢治の教えに従い数々のことを成した松田甚次郎。その実践記録『土に叫ぶ』などの著作で、当時全国的に有名な人物でした。彼の生涯を振り返り、その遺したものを今一度考えてみませんか。野に起ち、土に叫ぶ

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