2013koho12
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5広報青年たちが全国各地から集まります。昭和七年、鳥越の南にあった古い小屋を借りて塾舎とし、最上共働村塾と名付けました。多くの住民がお互いの役割と責任を認め合い、相互関係を深めながら「共に働く・行動する」関係を築いていくという意味が「共働」には込められています。 塾生は四時に起床し、午前は農村や社会、政治の問題・農業経営・青年教育などの研究会、午後は畑仕事や堆肥作りを行い、夜は村塾の趣旨やその経営、行事などを論じ合っていたそうです。■「鳥越隣保館」の設立 昭和八年、甚次郎は有ありすがわ栖川宮記念厚生資金を授与されます。すると、それまでの彼に対するす周囲の見方も一変しました。そして、この資金をもとに、村人の協力を得て「鳥越隣保館」を建設し、農繁期託児所を開きました。共同浴場の開設、鳥越出産扶助会を結成するなどの活動も展開しました。 このころから、甚次郎の実践は全国の人々から注目され、多くの見学者が訪れるようになります。また、その活動は、多くの新聞・雑誌によって紹介され、講演などの講師依頼が相次いだため、多忙を極めま鳥越倶楽部結成土舞台上演最上共働村塾設立1927(昭和2年)1932(昭和7年)したが、疲れた体にむち打って出かけ、熱弁を振るいました。■実践記録『土に叫ぶ』出版 昭和十三年、甚次郎は、当時衆議院議員だった羽田武ぶ嗣し郎ろうの強い勧めにより、過去十年間の実践記録「土に叫ぶ」を出版します。すると、たちまちベストセラーとなり、その後東京有楽座で新国劇として上演されたこともあって、甚次郎の名は全国に知れわたります。 次いで翌年、師・宮沢賢治の作品集『宮沢賢治名作選』を出版し、これが賢治の文学や思想を広く人々に知らしめるきっかけとなったのです。■甚次郎土に帰る 昭和十八年は史上まれにみる干ばつの年でした。村では神仏の力に頼るよりほかなしとして、こぞって新田川の水源、八森山に雨乞いに登りました。連日の過労に続く、無理な登山は甚次郎の体力を奪っていきます。かろうじて帰宅したものの、病に倒れ入院することとなります。そして、その病は癒えることなく、八月、三十五歳の若さで土に帰っていきました。3月に宮沢賢治を訪ねる甚次郎実践の場 鳥越土舞台▲鳥越八幡神社の境内を上がっていくと、そこが土舞台理イーハトーブ想郷に生きた男たち郷土の偉人 松田甚次郎▲鳥越倶楽部による上演▲若者たちの前で語る甚次郎▲鳥越隣保館▲最上共働村塾と塾生たち12

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