2013koho12
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6鳥越隣保館を設立最上共働村塾が2カ年の長期塾に1933(昭和8年)1934(昭和9年)■宮沢賢治の二つの言葉 賢治を訪ねた甚次郎は、最初「地主のボンボン」という扱いを受けたそうですよ。 そこで賢治から「小作人たれ」「農民劇をやれ」という二つの教えを受け、実践するわけですが、初めは小作人となった甚次郎と父親である甚五郎との間に軋あつれき轢もあったようです。ただ、「農民劇をやれ」という言葉から鳥越土舞台をつくり、農村の水争いの空しさを説いた「水涸れ」を演じた甚次郎のメッセージを汲み取り、村をあげて新田川の転うどざか坂に堤を作ることを後押ししたのも甚五郎でした。■賢治と甚次郎 当時、甚次郎は賢治よりも先に有名になりましたが、最上共働村塾の「塾長」を賢治とし、自分は「塾頭」として活動していたことでもわかるとおり、生涯賢治の教えを大切にしていました。 二人の死後、賢治の教え子たちが大勢鳥越にやってきました。それは「賢治の理想郷を実践し、実現した人」という認識が、彼らの中に■松田のあんつぁ 村の人からは「松田のあんつぁ」と呼ばれていましたが、私は子ども心にも「忙しい人だなぁ」という印象を持っていました。せっかちにいつも何かやっていたように記憶しています。列車に自転車を載せて遠出しては、県庁などいろんなところを矢継ぎ早に回って、手続きや交渉などを行っていたそうです。 そんな甚次郎でしたが、大声で怒っているところを見たことがなく、穏やかな人でした。しかし、同時に自分の考えを貫徹する強い意志を持っていたんだ、と今は思っています。「郷土の偉人」松田甚次郎が遺したものとは何だったのか。最上共働村塾の元塾生達が組織した「最上の会」。当時のメンバーは残っていませんが、鳥越地区では、今もその意志・理念を伝えるために「最上の会」を継続して運営しています。その事務局を務める松田周治さんに、甚次郎と接していたころの思い出を紐解きながら語っていただきました。甚次郎が遺したものとは『土に叫ぶ』と『続・土に叫ぶ』▲現在の転坂堤甚次郎の日記▶

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