2014koho08
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改めて知る、 新庄まつり■新庄まつり略年表■1628新庄城内天満宮建立(8/25)■1755凶作飢饉で多くの餓死者が出る■1756宝暦6年、正諶が城内天満宮の祭礼を始める■1776記録に山車がはじめて登場。■1921戸沢氏移封300年紀年祭開催■1937第二次大戦が近づく中、城内天満宮祭礼が山車・神輿渡御とも中止。■1941城内天満宮祭礼は平祭り。山車・神輿渡御とも中止。■1946この年、戦後初めて山車がでる。■1947昭和天皇東北御巡幸で山車をご覧いただく。■1949昭和24年、 新庄市制記念祝賀行事として、共進会が開催。山車が運行。■1950まつりの名称が、城内天満宮祭典から「新庄まつり」になる。■1958昭和33年、 この年より8月24日に夜間照明付山車の巡回が始める。■1966名称が「新庄やたい祭り」になる。■1967まつりの名称が「新庄山車(だし)まつり」となる。■1968この年から、新庄まつりがテレビ放映される(YBCテレビ)。まつりの名称が「新庄まつり」にもどる。■1976新庄まつりがフジテレビ系列で全国に生中継で放映される。■1983昭和58年、 新庄ふるさと歴史センター開館。2台の山車が常設展示。■1991東京「隅田川まつり」と大阪「御堂筋パレード」に参加(下金沢町若連・鳥越囃子若連)。■1992東京「日本橋・京橋まつり」に参加。(常仲町若連・升形囃子若連)■1993東京「大銀座まつり」に遠征するが、台風のため中止となる(上茶屋町若連、北本町若連、末広町若連)。■観光と地域の活性化 西暦一七五六年(江戸中期の宝暦六年)、時の五代新庄藩主、戸沢正諶公が、前年の大凶作で疲弊したこの地に再び活気を取り戻そうと始めた祭りが、新庄まつりの起源といわれています。正諶公は、凶作で疲れ切った領民を励ますため、戸沢家の氏神である天満宮の神輿を城下で巡行させました。そして、城下の町人町に呼びかけて鉾や飾り物を出させ、神輿のお供をさせたそうです。武士や町人、農民、また老若男女の区別なくすべての人が参加したこの「領民あげての祭り」は、今も「市民あげての祭り」として受け継がれているのです。■まつりを取り巻く状況 平成二十一年、国の重要無形民俗文化財となった新庄まつりですが、今度は、ユネスコ世界遺産への登録に向けた動きが出ています。登録申請数の多さから、審査は残念ながら先延ばしとなりましたが、今後の進展に大いに期待したいところです。 また来年は、新庄まつり開催二六〇年の記念の年でもあります。担い手不足が慢性化する中で、こうした社会情勢の変化に適切に対応しながら、伝統を守っていかなければなりません。一昨年度に策定された「新庄まつり百年の大計第三期計画」でも、こうした時代背景を踏まえた新庄まつり振興を進めることが謳われています。■まつりの実施体制 新庄まつりは、さまざまな組織が協力して開催されています。山車若連、囃子若連などはよく知られていますが、ほかにも多くの方々に支えられています。関わりが深い組織は左図に示す通りですが、ほかにも、地区に伝わる鹿子踊りを、八月二十六日に奉納・披露する萩野地区と仁田山地区の保存団体、また同日、奉納大会を実施している弓道連盟や柔道連盟などがあるほか、まつりの担い手、そして観客としての市民の皆さんの存在もとても重要です。また、市外や県外、さらには国外から訪れる観光客の方々についても、まつりを盛り上げてくれる存在としてだけでなく、担い手不足の軽減・解消につながるような取り組みが検討されています。◎商工観光課観光交流室☎内線2514

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