2015koho01s
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 堤林数衛は、旧新庄藩士槍術師範、堤林繁美の長男として、明治6年、市内宮内丁(現在の城南町あたり)で生まれました。明治29年に台湾に渡った彼は、香港やシンガポール、ジャワなどに支店を持っていた台湾の貿易商、郭春秧(かくしゅんおう)と交際を深め、その後援を得ながら大きな成功を収めました。 その後、明治40年からの2年間は日本で過ごします。読書に努め、宗教に関する知識を吸収した彼は、明治41年にキリスト教に入信しました。そして、台湾で培った知識や経験を生かして社会に尽くすのが自分の使命だと思うようになり、やがてそれが、南洋で活躍する青年の養成に尽くしたいという決意につながるのです。明治42年、彼は、選抜した15人の青少年を率いてジャワ(インドネシア)で会社「南洋商会」を興しました。会社は農業経営なども含めた事業を次々と展開しながら拡大し、支店40か所、従業員300人余りにまで成長しました。そして、彼の海外進出がもたらした日本産業への貢献が認められ、大正13年には、日本産業協会から表彰されました。 しかし、大正8年ごろに発生した世界経済恐慌の影響を受け、昭和3年に会社は解散してしまいます。やむなく引き上げざるを得なかった彼は、この 中央研究院台湾史研究所の鍾淑敏先生とともに、『堤林数衛関係文書選輯』を台北で刊行いたしました。その本『選輯』刊行にあたり、堤林数衛翁のお孫さんである大星三千代様とご主人の大星正嗣様から、貴重な一次史料を提供いただきました。これらの一次史料は、堤林数衛翁のご子息である堤林三郎氏が長く整理と管理をされたものと聞いております。提供くださった大星ご夫妻に改めて感謝申し上げます。 堤林は、台湾総督府官房調査課『南洋に於ける邦人の事業』という資料に、広『堤林数衛関係文書選せん輯しゅう』の刊行にあたり新庄市の皆さまへ       籠谷直人堤つつみ林ばやし数かず衛えを知る▲南洋商会▲寄贈いただいた資料集●本文編集にあたり、新庄市史や矢野暢氏による『「南進」の系譜』を参考にしています。4世界各地で多くの日本企業が現地の人たちとともに事業を進める現代。しかし日本がようやく外国との交流を進め始めた明治時代、海外で事業を起こし、成功を収めた新庄人がいます。日本企業の海外進出の先駆け

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