2015koho01s
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とき、共に働いた部下たちに全財産を分け与えて帰国しました。帰国後は伊豆大島や小笠原諸島で、農園開設や水産業、さらには発電事業などに取り組みました。 昭和12年、解散後も現地に残った社員など、関わりが深かった人々500名が、彼を再びジャワに迎えようと「南洋同人会」を組織しました。しかしそれは実現できず、翌年1月、患っていた病が重くなった彼は、小笠原でその生涯を閉じました。享年66歳でした。 南洋商会の設立と事業拡大に伴い、日本全国から多くの青年たちがジャワに渡りました。近年になり、その偉大な事業を永く後世に伝えようと、全国組織の「ジャガタラ友の会」が設立されました。そして昭和51年、この会の会員や有志により、市内上西山にある「小磯国昭の墓」の隣に、彼の胸像「堤林数衛翁頌徳碑」が建立されました。桂嶽寺脇の通称「西山の丘」と呼ばれる小高い場所から、彼は今も市内を見つめています。 また昨年、日本の華僑研究が専門の、籠かごたに谷直人京都大学教授と、台湾中央研究院台湾史研究所の鍾しょ淑しゅくびん敏先生らが編さんした資料集が刊行され、市に寄贈いただきました。当時の写真や手紙、会社経営に関わる書類など、貴重な資料が収録されており、市立図書館で見ることができます。◎ふるさと歴史センター☎22–2188大な椰子山を所有する人物としてその名を残していて、日露戦争後、旧オランダ領東インド(現在のインドネシア)のジャワに渡って事業を営んだ日本人の一人でした。「南洋商会」、「南洋倉庫」、「華南銀行」の設立に深く関わる人物であり、この事業内容が今般刊行の『堤林数衛関係文書選輯』から読み取れます。 日清戦争後に台湾が日本の領土になったあと、堤林は明治29年に台北に渡ります。その渡航の動機はよくわからないのですが、台湾総督府が監獄の看守を募集したことに応じたようです。明治31年から郭春秧の郭河東公司に入社します。この郭春秧という人物は、「台湾籍民」(日本国籍をもつ台湾人)として歴史的に重要な人物です。堤林は、郭春秧の後援を得て明治42年4月に、自分の会社である南洋商会を設立します。南洋商会は、ジャワのスマラン(ジャワ中部)に本社があり、東京と大阪の仕入れ部から輸入した雑貨をジャワで販売しました。設立時の明治42年に、ジャワ西部のバタヴィアに日本の総領事ができたのですが、台北時代から知己を得た郭春秧がスマランに事業拠点を持ち、事業のネットワークを張り巡らしていたことから、この地を拠点としました。 堤林の歴史的重要性は、武田重三郎編『ジャガタラ閑話―蘭印時代邦人の足跡』から理解できます。この資料は、旧オランダ領東インドに居住していた日本人が、戦後に設立した「ジャガタラ友の会」の有志によって編まれた「約半世紀前後の現地を回顧」した記録からなっています。53名の寄稿者の多くが言及しているのが小※1川利八郎という人物と堤林数衛で、堤林は「小川利八郎氏と共に爪※2哇邦人発展の双璧」と評されています。「元気ある青年の秩序ある統制によって爪哇各地に日本の商社の種子を植えた」人物とも評されていて、ともにジャワに渡った林省三、久我操、原田薫二、三浦襄ら青年たちを熱心に指導しました。 今回、堤林数衛関係文書と出会えその背景を調査していくことによって、戦前期のジャワにおける日本人実業家の一端を知ることができました。編さんに当たり、多くの方の支援や貴重なアドヴァイスをいただきました。改めて感謝申しあげます。※1 小川利八郎…千葉県出身で日本の売薬を現地に浸透させた成功者※2 爪哇…ジャワ▲堤林数衛の胸像が佇む通称西山の丘▲籠谷直人教授(中央)と鍾淑敏先生(右)5広報01

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