2015koho04s
20/20

文字を見やすくしました本文にモリサワユニバーサルフォントを使用しています。さらに詳しい取材記は市公式ホームページでご覧になれます。温故知新庄!?故きを温ねて新庄を知る0かむてん奮闘記平成27年4月9日号(No.688) ■編集・発行/新庄市 総務課 〒996–8501 新庄市沖の町10–37 TEL.0233–22–2111 ■制作・印刷/共栄印刷株式会社 13,800部発行広報04 新庄城は、本丸堀の外側に二の郭と二の堀が、その堀を隔てて三の郭と三の堀がある三重構造になっている。  二の郭は、新庄南高校舎から市民文化会館、新庄中学校、そして本丸西裏側の本丸堀の周囲で、藩の重臣の屋敷や役所などがあった。市保健センター脇には、わずかに二の堀の形跡がある。二の郭には、大手御門・南御門・北御門があり、現在地は、市保健センター・新庄南高通用口・新庄中学校の北東隅になる。三の堀は、町人町と侍町の境界になっていて新庄郵便局の東裏辺りに巡らされていたもので、現在の三の堀堰でその大よそが分かる。南本町から市民プラザの所にあった大手口を鍵型に進み、市立図書館前を右折して、大手御門を通り本丸の表御門に至るのが城へのメインストリートであった。町人町から三の郭への通行は、夜間は禁止だったが、こらっせ新庄脇の通りは例外で、唯一いつも通れたため、鼠穴口と呼ばれていた。 新庄城下の今と昔 城下町新庄は戊辰戦争でほとんど焼失してしまったので、その名残が残っているものはあんまりないんじゃ。 堀の跡とか地名なんかで確認することができるんじゃが、「こらっせ新庄脇の通りは、万場町の遊郭にいくために夜間でもこっそり通ることができた」なんていうように、口伝として残っている話もいっぱいあるんじゃよ。今月かむてん部長は里帰り中のため、写真はお休みさせて頂いております。かむてん検索「新庄開府390年」を温たずねる〜其の二〜▲三の堀堰▲保健センター脇の堀跡▲歴史センター脇の史跡案内図

元のページ 

10秒後に元のページに移動します

page 20

※このページを正しく表示するにはFlashPlayer10.2以上が必要です