2015koho05s
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文字を見やすくしました本文にモリサワユニバーサルフォントを使用しています。さらに詳しい取材記は市公式ホームページでご覧になれます。温故知新庄!?故きを温ねて新庄を知る0かむてん奮闘記平成27年5月11日号(No.689) ■編集・発行/新庄市 総務課 〒996–8501 新庄市沖の町10–37 TEL.0233–22–2111 ■制作・印刷/共栄印刷株式会社 13,800部発行広報05 市指定史跡「鳥越の一里塚」を起点として上茶屋町出世稲荷神社辺りまでが一里(約4キロメートル)だ。 南の入口は市指定史跡「柳の清水と氷室の句碑」の辺りで、金沢八幡神社を経て円応寺から金沢通りとなる。この街道沿いには町家や農家があり、裏通りには足軽屋敷が配置された。中の川を越えた所に大木戸があり、そこから落合町などの城下町が続き、指首野川の手前にある、新庄まつりで城内天満宮の仮宮となる吉川町天満社(現在はない)の前に大木戸があった。そこまで城下に約四百五十軒の町家が軒を連ねていた。現在の市役所辺りには、年貢米を納める郷蔵があった。 南本町には、芭蕉が句会を開いた渋谷家(盛信亭)や大名が泊まった本陣井東家が、北本町には本陣中嶋家があった。万場町東裏には、藩主の常盤町別邸と侍屋敷があり、その雰囲気は今も残る。北の固めの大木戸を過ぎ指首野川を渡った鍛冶町、茶屋町が城下の端となる。羽州街道と新庄藩 江戸時代につくられた福島県と青森県を結ぶ街道で、新庄もこの街道の宿場町として発展してきたんじゃよ。 参勤交代のときは、新庄藩のお殿様はもちろん、津軽や秋田のお殿様もここを通って江戸まで行ったそうじゃ。 今も昔も新庄は交通の要衝だったんじゃな。かむてん検索「新庄開府390年」を温たずねる〜其の三〜▲市指定史跡「柳の清水と氷室の句碑」▲渋谷家盛信亭跡の碑▲現在の万場町東裏◀市指定史跡「鳥越の一里塚」脇にある 羽州街道跡の碑

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