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文字を見やすくしました本文にモリサワユニバーサルフォントを使用しています。さらに詳しい取材記は市公式ホームページでご覧になれます。温故知新庄!?故きを温ねて新庄を知る0かむてん奮闘記平成27年7月9日号(No.691) ■編集・発行/新庄市 総務課 〒996–8501 新庄市沖の町10–37 TEL.0233–22–2111 ■制作・印刷/共栄印刷株式会社 13,800部発行広報07 「大正7年、塩野原に飛行機が飛んで、まだ、自動車も見たことのない人々が仰天した。」とある。塩野原は、当時、陸軍省軍馬補充部の牧野だった。この広大な原野が最初に開拓されたのが昭和開拓で、少し遅れて塩野郷開拓が行われた。個人の開拓がきっかけだったが、後に県営となり昭和12年、第一次開拓として23名が入植した。 当初は「四方見渡せば、塩野中皆萩萱計りにて」といわれた水利の悪い所で、昭和40年に金山町にできた桝沢ダムの通水が始まるまで開拓は困難を極めた。その水田の二枚橋方面に「傾城壇の杉」がある。秋田の若者を追いかけてきて力尽きて亡くなった京都の遊女の墓がある所で、この杉の枝は、遊女の恋慕の情で、秋田の方にだけ伸びている。 その近くに、仁田山から塩野を通り鮭川地内に伸びる約5キロの直線道路がある。一等三角点塩野原基線で、全国15の基線の中で唯一残っており、国土地理院の測量遺産として保存されている。測量遺産塩野原基線 国土地理院の測量遺産として保存されとるのが、ここ塩野原基線じゃ。 基線というのは、明治の時代に日本の地図を作るために、基準として設置した長い直線のことなんじゃが、全国で15か所しかないんじゃ。そしてこの塩野原にある基線しか今日本には残っていないそうなんじゃよ。 わしの故郷の神室山から飛び立つときにも、きれいな直線がすーっと延びているのが見えるんじゃよ。かむてん検索塩野界かい隈わいを温たずねる▲傾城壇の杉▲塩野原基線始点▲塩野原基線終点(鮭川村)

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