2015koho08s
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すべては、自分の責任襲名は野川家の全てを背負うこと︱人形師という仕事について、子どもの頃どんなことを感じていましたか 一般のサラリーマンの方とちがって、人形師は自宅の作業場で仕事をしていますので、自然と父親の仕事を見る機会が多かったように感じます。その影響もあって、小さい頃から自然と「人形師」というものに興味を持つようになりました。︱修行はいつ頃から始めたのですか 「芸の世界は、6歳の6月6日から始めるとよい」と言われています。私もその言い伝え通りに修行をはじめました。 当然、父に弟子入りすることになるわけですが、仕事には人一倍厳しい人だったので、食卓などでも仕事の話となると、自然と師匠と弟子という会話になります。 ︱子どもの頃から家業を継ぐことを意識していたのですか はい。昔はほかにもお弟子さんがいましたが、私が修行を始めてからは、弟子は私一人になりました。 ただ、父から継げと言われたことは一度もありません。周りからそう言われても「本人が決めることだから」と言っていましたね。︱野川家四代目になってから変わったことはありますか 修行時代は、この仕事で生計をたてていくために、とにかく技術を高めることだけを考えていました。この仕事は木と向き合いながら、彫りから塗りまですべて一人で仕上げていく仕事です。作品のすべての責任が私にあるわけなので、そんなことをずっと考えていました。でも、四代目となると、その責任は私だけのものではなく、初代から三代目までの「野川家の技術と名」を背負うことになります。過去まで含めた責任を背負うわけですから、より一層、半端な仕事は出来ないと感じています。父がそうだったように私も背中で見せていくだけ︱五代目についてはいかがですか 今、七歳の双子の娘と、二歳の息子がいますが、上の子たちは興味を持ってくれているようで、時折仕事場をのぞいていたり、何か手伝わせてくれと言ってきます。︱では、五代目も安泰ですね いや、そうなってくれればいいなーとは正直思っていますが、子どもたちには、子どもたちなりの人生がありますので、私も父と同じく、「継いでくれ」と言うつもりはありません。背中で見せていくしかないと思っています。▲野川家初代 野川音治(初代北山)▲野川家二代 野川徳太郎(初代陽山)▲野川家三代 野川正博(二代陽山)広報5二六〇年目の心技体08野川家の技とその遺伝子 野川家二代となる野川徳太郎氏(初代 陽山)の作品は、初代北山と比べてより現代的でリアルな顔立ちをしており、その人形によって山車の迫力が増し、新庄まつりの評価も高まりました。 その初代陽山の後を継いだのが野川正博氏(二代 陽山)で、20歳で父を亡くした正博氏は、翌年21歳で二代陽山を襲名。人形師として活躍するかたわら、能面師としての道を追求し、30歳を迎える頃には野川陽山の名は能面師として全国に知られるようになりました。今も現役でご活躍されています。

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