広報しんじょう 2016年8月9日号
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4元和8年(1622)…戸沢政盛、新庄領へ寛永5年(1628)…新庄城内天満宮建立延享2年(1745)…戸沢正★家督を継ぐ宝暦5年(1755)…大凶作で餓死者多数宝暦6年(1756)…城内天満宮の祭礼開始明和7年(1770)…角沢街道に松本村有志が、宝暦の飢饉での犠牲者を弔う「餓死聖霊位碑」を建立安永5年(1776)…記録に山車が初めて登場文化13年(1816)…角沢街道丸仏が光明堂宥恭により建立される慶応4年(明治元年/1868)…戊辰戦争で城下は焼け野原に。しかし翌年、神輿を新調し、神輿渡御行列を行う明治3年(1870)…この頃から毎年開催に明治38年(1905)…人形師野川北山(初代)・陽山(初代)が新庄に移り住み、山車人形づくりを始める 新庄まつりは、江戸時代にこの地を治めていた新庄藩主5代戸沢正諶のぶが宝暦6年(1756)に始めたと伝わっています。その前年に発生した大凶作で、多くの餓死者が出た新庄領内を活気づけるため、戸沢氏の氏神である天満宮の新祭を領民あげて行ったものです。 戸沢氏は、領地が変わるたびにご神体も移して城内に祀ってきたと考えられており、氏神を大切にしてきました。また、延宝8年(1680)、2代藩主正誠が城下の北の守りとして吉川町に天満宮を分祀しましたが、領民が等しく参拝できるようにという思いも込められていたようです。郷土の歴史文化を研究していた嶺金太郎が記した「増訂最上郡史」には、吉川町天満宮(今はありません)では、新庄まつりが始まる宝暦6年以前から8月に祭礼を行っていたとの記述があります。おそらくは領民主導で開催されていたであろうこの祭礼が、領内の惨状に心を痛めていた5代藩主に、「新庄まつり」を発想させたのかもしれません。 宝暦6年に始まった新庄まつりは、藩主が新庄にいる年(参勤交代制度により一年おきに江戸に滞在)に欠かさず開催されたようです。そして、その後も飢饉や災害に見舞われた当地の状況を背景に、6代以降、6人の藩主たちも続けました。結果としてこのことが、国の重要無形民俗文化財やユネスコ無形文化遺産登録候補へと成長する最初のステップと言えます。また、江戸から明治の激動の世にあっても、藩主導から住民主導の祭りへと体制を変え、さらには隔年ではなく毎年実施されるようになって再び続いていきます。日中戦争勃発頃の数年間は中止されましたが、復興、世直しのまつりは再び蘇り現在に至っています。 廃藩から150年、まつり開始から260年あまりの長い月日が流れました。5代藩主が種をまき、歴代藩主とこの地に住む人々によって育てられてきた新庄まつり。多くの関係する人々によって、歴史的、そして文化的な意義を吹き込まれ続けてきました。そして今年、さらなるステップを昇り、世界に向けて羽ばたこうとしています。藩主、住民。そしてゆかりの 人たちの想いが世界へ羽ばたく▲昭和11年の中山町若連による山車「躍進日本」。当時の世相が色濃く反映されている▲文化13年建立の角沢街道丸仏(市内本宮)▲明和2年、44歳で亡くなった5代藩主の墓碑(市内瑞雲院)▲現在の天満宮(最上公園内)。新庄まつり中には、昔も今も神事が執り行われる。

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