2017koho07
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三木支局長(以下 三木) まず、初めにお二人が松田甚次郎を知ったきっかけを教えてください。近江正人氏(以下 近江) 私は、生まれも育ちも日新学区だったので、鳥越に松田甚次郎という人物がいたことは、子どもの頃から知っていました。ただ、それが何を成した人なのかは知らず、教員となって、昭和48年に、県立新庄農業高校(現在の神室産業高校)に赴任した際、生徒たちの「郷土の偉人を調べる」という活動を指導していた際に甚次郎を初めて詳しく知りました。 国語教師でしたから、あの宮沢賢治を世に知らしめた人物が、この新庄にいたことがわかり、とても驚いたことを記憶しています。山尾市長(以下 市長) 私は、元々市役所職員だったのですが、社会教育課に所属していた際、市民プラザで行われた「松田甚次郎没後50周年記念式典」の担当をしたことがきっかけです。 甚次郎の没後50年ということで、日本全国に散らばっていた共働村塾の元塾生達から「自分たちも高齢となり、これが最後かもしれないから、ぜひ50回忌を新庄でやってほしい」という要望が多数寄せられたのです。 私自身、その事業を担当するまで、松田甚次郎の名を聞いたことが無かったのですが、式典にお越しいただいた元塾生の方々から、話の端々に「甚次郎14特別対談松田甚次郎が遺したもの新庄市長山尾 順紀×詩人 近江 正人朝日新聞新庄支局長司会 三木 一哉 この時代においても、なお光り輝く松田甚次郎の功績。いったい彼がこの地に遺していったものはなんだったのか。 そして、甚次郎の成したことを通して、今を見つめたとき、私たち、新庄最上に生きる人間にどのような意味があるのか。 朝日新聞新庄支局長の三木一哉氏を司会者に、甚次郎の生涯を脚本として世に発信してきた詩人 近江正人氏と山尾市長に語って頂きました。

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