2017koho07
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革していったのです。 甚次郎の没後、戦後となって「農地改革」が行われました。この改革により、地主制度は終焉、近年まで一定の成功を収めてきたと言えるでしょう。しかし、『農』を経済活動として捉えてきた限界が今、来ているように感じています。『農』は国の根底であるにも関わらず、世の流れとともに、経済の概念が導入されたことにより格差が生じ始めてきたのです。 まさに、地主制度だった時代と同じような構造となってきています。この時代にこそ、甚次郎のような「間違っていても、そうじゃなくてもいいから、周りと共に突き進めるリーダー」が必要だと思います。近江 私もそう思います。ここで甚次郎の成してきたことに目を向けると、甚次郎は、さまざまな農村の課題を解決する方法として、「芸術」を取り入れるという、画期的な手法をとりました。これは宮沢賢治の教え「一.小作人たれ 二.農村劇をやれ」の実践です。 甚次郎は、村の若者たちと共に、農村劇を始めましたが、この劇のテーマは、いつも村が直面している課題でした。 甚次郎は、村を歩くとき、常時ノートを持参し、気づいたことはすべてメモしていたそうです。そして、それらの課題を農村劇という形で、啓蒙していったのです。娯楽が少なかった当時、村人と共同で作り上げたこの劇は、演者は勿論、見ている人たちにも大いに受け入れられ、そして実際に成果もありました。 甚次郎が一度だけ、賢治に劇の台本のアドバイスをもらったことがあります。この劇が「水涸れ」という題材で、村の水争いをテーマにしたものでした。この劇がきっかけとなり、10年後、共同の堤が出来ることになったのです。三木 演劇に関して、新庄はとても盛んだと感じますが、この甚次郎の活動は影響しているのでしょうか近江 あると思います。そして、新庄最上の演劇の質は非常に高いです。古くから高校の演劇部員と教師たちが取り組んできた成果だと思いますが、「演劇と教育は矛盾しない」と考える指導者が多く、このことは甚次郎が成そうとしてきた、「芸術の力でむらを変える」という活動の続きをしているともとれます。三木 ほかに甚次郎が成してきたことを調べてみると、村に消費組合を作ったり、女性や子どもの愛護運動(地位向上運動)をおこなったりと、彼と同じように格差と向き合った英国の社会主義者ロ※バート・オーウェンと似ているように感じますがいかがですか。市長 社会主義的思想というよりも、甚次郎の場合、単純に村のために必要に迫られて行ってきたアイデアの一つなのではないでしょうか。 そしてそれらのアイデアは、少子高16文化を作りながら生きていく。そのエネルギーが新庄人にはある 賢治の教え「農村劇をやれ」は、甚次郎によって今もこの地に生きている。そして今、若い人たちの頑張りが芸術活動においてさまざまな方向に波及している。地域を作っていくのは、そういったエネルギーであり、この甚次郎の精神が次世代の花を咲かすのだと思う。

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