2017koho07
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4※写真は土舞台で上演された甚次郎の生涯を描いた朗読劇小作人たれ、農村劇をやれ松田甚次郎1909-1943昭和の初め、宮沢賢治の訓に従い数々のことを実践した松田甚次郎。その実践記録『土に叫ぶ』や『宮澤賢治名作選』などの著作で、当時全国的に有名な人物でした。しかし没後、戦中の植民地農政に協力した疑いを持たれ、その名は忘れ去られていきます。甚次郎が生きた時代、彼が何を考え、何を成したのか。その意味をひも解いていきます。宮沢賢治(1896-1933)花巻市生まれ。盛岡中学、盛岡高等農林学校卒。1922年花巻農学校教諭。1924年、心象スケッチ『春と修羅』、童話集『注文の多い料理店』刊行。 1926年羅須地人協会設立。農民の生活の向上のために尽くすが、急性肺炎のため37歳で永眠。 資料提供JINJIROMATSUDA1927(昭和2年)1926(大正15年)1923(大正12年)1909(明治42年)●●●●鳥越倶楽部結成土舞台上演盛岡高等農林学校農業科別科に入学3月3日、稲舟村(現新庄市)鳥越の旧家の長男として誕生3月に宮沢賢治を訪ねる日新小学校卒業村山農学校入学松田 甚次郎とは生い立ちと出会い 松田甚次郎は明治42年3月3日、市内鳥越の自作兼地主の裕福な農家に長男として生まれました。そして現在の日新小学校を卒業後、村山農学校を経て大正15年に盛岡高等農林学校農業科別科(現在の岩手大学農学部)に進学します。 在学中の大正15年4月1日岩手日報朝刊に掲載された、羅ら須す地ち人じん協きょうかい会設立に寄せて宮沢賢治が語った記事を見た甚次郎は、卒業間際の昭和2年3月に賢治を訪ねます。その時、賢治から「小作人たれ」、「農村劇をやれ」という二つのことを諭されたといいます。感銘を受けた甚次郎は賢治の教えを信じ、小作人として生きることで真の農村振興を図ろうと決意しました。鳥越倶楽部と最上共働村塾 鳥越に帰った甚次郎は、父に60アールの田を借り小作人となります。同時に村の青年を集めて、鳥越倶楽部を結成します。彼らは、鳥越八幡神社に自分たちで土舞台を築き、36回もの上演を行いました。 また、甚次郎は、農業恐慌により疲弊していく村の生活を守るため、有機農業を主とした自給自足的農業経営を実践します。村に消費組合を組織し、禁酒や女性の地位向上運動などにも力を注ぎました。 これら甚次郎の活動は当時あまりにも型破りだったため、一部の人々に、左翼的危険思想の持ち主と疑われることとなりました。 その一方で、彼の活動を知った青年たちが全国各地から集まります。

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