2017koho07
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57甚次郎実践の場 鳥越土舞台▲鳥越八幡神社の境内を上がっていくと、そこが土舞台ここに咲いた花 しんじょうの種と松田甚二郎▲鳥越倶楽部による上演▲若者たちの前で語る甚次郎▲鳥越隣保館▲最上共働村塾と塾生たち1943(昭和18年)1939(昭和14年)1938(昭和13年)1934(昭和9年)1933(昭和8年)1932(昭和7年)●●●●●●ここに咲いた花 しんじょうの種と松田甚次郎8月、35歳で他界鳥越隣保館を設立『宮澤賢治名作選』を出版最上共働村塾が2カ年の長期塾に「土に叫ぶ」を刊行、ベストセラーに。東京有楽座で「土に叫ぶ」上演最上共働村塾設立昭和7年、鳥越の南にあった古い小屋を借りて塾舎とし、最上共働村塾と名付けました。多くの住民がお互いの役割と責任を認め合い、相互関係を深めながら「共に働く・行動する」関係を築いていくという意味が「共働」には込められています。「鳥越隣りん保ぽ館かん」の建設 昭和8年、甚次郎は有ありすがわのみや栖川宮記念厚生資金を授与されます。すると、それまでの彼に対する周囲の見方も一変しました。そして、この資金をもとに、村人の協力を得て「鳥越隣保館」を建設し、農繁期託児所を開きました。同時に、共同浴場の開設、鳥越出産扶助会を結成するなどの活動も展開しました。 この頃から、甚次郎の実践は全国の人々から注目され、多くの見学者が訪れるようになります。また、その活動が新聞・雑誌によって紹介され、講演などの講師依頼が相次いだために、甚次郎の生活は多忙を極めることとなりました。実践記録「土に叫ぶ」出版 昭和13年、甚次郎は、当時衆議院議員だった羽田武嗣郎(元内閣総理大臣羽田孜の父)の強い勧めにより、過去十年間の実践記録「土に叫ぶ」を出版します。すると、たちまち全国でベストセラーとなり、その後東京有楽座で新国劇として上演されたこともあって、甚次郎の名は日本中に知れわたります。次いで翌年、師・宮沢賢治の作品集『宮澤賢治名作選』を出版。これが賢治の文学や思想を広く人々に知らしめるきっかけとなったのです。甚次郎、土に還る 昭和18年は史上まれにみる干ばつの年でした。甚次郎や村人たちは新田川の水源、八森山に雨乞いに登りました。連日の過労に続く、無理な登山は甚次郎の体力を奪っていきます。かろうじて帰宅したものの、病に倒れ入院することとなります。そして、その病は癒えることなく、35歳の若さで土に還っていきました。甚次郎が遺したもの 甚次郎の没後、日本は終戦を迎えます。その後、農地改革などの荒波のなかで、彼の行ったことは、植民地農政に協力した疑いを持たれることとなりました。そして、その名は忘れ去られていくこととなったのです。 そして、甚次郎がこの地で農村のために熱く生きた時代から74年が経過した今、再び彼の活動を世に広めようとする動きが出ています。 次頁からは、そんな「しんじょうの種」を咲かせた人々を紹介します。

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