2017koho07
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最上の会とは 最上の会は、甚次郎が存命中に作られた団体で、主に最上共働村塾の塾生などが加入していました。現在は、生家を含め、鳥越地区の人々などが甚次郎を慰霊する活動を行っています。また、宮沢賢治の故郷、岩手県花巻市にも、賢治の実弟である故・宮沢清六氏を中心とした「岩手最上の会」があり、鳥越の最上の会と深く交流を持っていました。 甚次郎の没後74年たった今でも、ここ鳥越地区では、毎年、甚次郎の命日である8月4日に最上の会のメンバーなどが中心となって、鳥越八幡神社にある甚次郎の胸像の前で、追悼式をおこなっているそうです。 今回は、最上の会事務局で、祖父が最上共働村塾の塾生だった吉野昭男さんにお話しを伺いました。今も残る甚次郎の教え 「じいさまがやっていたことを見ていたので、こうじも作れるし、私の家ではアンゴラウサギを飼っていたよ。」 甚次郎は、村の生活を守るために、自給自足的な農業経営を進め、農作物以外にもホームスパン(糸の太い手織りの毛織物)や果樹、蜂蜜、畜産など、多角経営を行っていました。 吉野さんのお話しに出てくるアンゴラウサギの毛はとても高価で、鳥越地区の人々が飼育していたものを塾生が買い取り、毛織物にしていたようです。また、味噌や醤油も自分たちで作っていたため、こうじの作り方が実践的に伝わっていました。 その他にも、平成18年度まであった鳥越保育園は、農繁期託児所であった「鳥越隣保館」の流れを汲んだもので、市内幼稚園の分園として運営されていました。守り伝えること 「昔は、隣保館が子どもたちの遊び場だったし、岩手最上の会とも交流があったので、甚次郎先生の名を意識することが多かった。でも、段々と世の中が豊かになっていくにつれて、甚次郎先生の痕跡が消えていってしまったんだよ。 私たちは、地元の人間として、これを伝えていくことが使命なんだと思っている。」 日本社会の成熟とともに、物質主義的な世の中となってから、甚次郎が成してきたことは一時的にその役目を終えてしまったのかもしれません。 しかし、口伝のように親から子へ、そして孫へ伝えられてきた甚次郎の息づかいを絶やさないため、彼が作り上げた「土舞台」を舞台にし、鳥越地区連合町内会や地元の団体などが協力して野外劇を行ってきました。 平成12年と22年に2度、社会貢献基金を活用して行ったこの野外劇では、宮沢賢治作曲の歌や鳥越神楽を交え、甚次郎の生涯をつづった演劇、朗読劇などが行われ、人であふれるほどの満員御礼となりました。 そして、平成27年12月には、鳥越地区公民館の再建にあたって、「隣保館」の名を復活させたのです。鳥越に残る「隣保愛助」の心 鳥越公民館には、松田甚次郎の功績を称えるコーナーが設けられています。そして、人々が集う大広間には「隣保愛助」の書が掲げられています。 「これは、新庄出身の元内閣総理大臣 小磯国昭が朝鮮総督だった時代、甚次郎先生が現地の農業指導者として招かれた際に、小磯に依頼して書いてもらったものです。」 最上の会と鳥越地区は、今でもこの甚次郎の教えを掲げながら、次の世代にその息吹を伝えています。▲甚次郎が小磯国昭に依頼した「隣保愛助」の書ここに咲いた花 しんじょうの種と松田甚次郎77▲平成27年に新築した鳥越公民館「隣保館」▲平成12年に行った土舞台での演劇▲鳥越八幡神社にある甚次郎の胸像2000(平成12年)1993(平成5年)●●土舞台で「大地のシンフォニー」を開催没後50周年を記念して鳥越八幡神社に胸像建立「松田甚次郎先生没後50年祭」記念式典

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