2018koho8
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4それは新庄に住む人々の元気のためにきっかけは 「領民の活気を取り戻す」さかのぼること260余年、江戸中期にあたる宝暦5年。新庄を含む奥羽地方は「亥いどし年の凶作」と名付けられた酷い冷害による深刻な凶作飢ききん饉に見舞われました。穀物は実らず大量の餓死者がでて、領内の人口は激減し、廃村の危機に瀕ひんした村も少なくありませんでした。他国から流れてくる乞こじき食も後を絶たず、疫病も蔓まんえん延していました。当時を生きた領民が憔しょうすい悴しきっていたであろうことは、想像に難くありません。飢ききん饉の翌年、宝暦6年。「犠牲者を弔い、生きながらえながらも憔しょうすい悴しきっている領民の活気を何とか取り戻したい」そう考えたのが、当時の新庄藩を治める戸沢家五代藩主・戸沢正まさのぶ諶公でした。正まさのぶ諶公は、五穀豊穣と領内安全を願い、戸沢家の氏神である城内天満宮の祭典を身分や老若男女の区別なく全領民をあげて行うことで、活気を取り戻そうとしました。起源と復活 共通する心意気元和8年(1622年) 戸沢政盛、新庄藩へ寛永5年(1628年) 城内天満宮建立寛文8年(1668年) 城内天満宮再建延宝8年(1679年) 城内天満宮改築延享2年(1745年) 戸沢正まさのぶ諶(五代藩主)家督を継ぐ宝暦5年(1755年) 冷害による凶作飢き饉きんが新庄藩を襲う宝暦6年(1756年) 正まさのぶ諶公、領民の再起を願い 城内天満宮の祭礼を始める安永5年(1776年) 記録に山やたい車が初めて登場慶応4年(1868年)戊辰戦争で城下は焼け野原に

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