2018koho8
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58特集 新庄まつり 受け継がれる心意気これが、新庄まつりの起源だと言われています。お祭りの賑わいは藩周辺の村に留まることなく、現在の河北町などの村山方面からも参詣者が集まるほどだったとの記録があります。正まさのぶ諶公の計らいは実を結び、当時の領民は大いに元気づけられたことでしょう。焼野原からの復活「亥いどし年の凶作」から100年以上が経過した慶応4年。京都で端を発した「鳥羽・伏見の戦い」を起点とする「戊辰戦争」の戦禍は、東北地方にまで広がりました。新庄では城と城下町が焼き討ちにあい、城下の大半が焼失しました。翌明治2年に版籍奉還、明治4年に廃藩置県と、わずか4年間でめまぐるしく状況が変化しました。このような激動の時代において、祭りが行われたのかどうか。明治2年に記された資料によると、天満宮の神みこし輿を新調し、看板・法はっぴ被といった物品を購入するために200両(現在の1,500万円に相当)を予定するとの記述があります。つまり、戦禍に見舞われた翌年の明治2年か明治3年には、早くも祭りが再開されていたということがうかがえます。城下の復興もしなければならない状況下で多くの予算を計上し、早期に祭りを再開させた新庄藩。ここにも、戦災で打ちひしがれている領民を奮い立たせようとする意図があったのかもしれません。終戦直後の混乱期からの復活さらに時を進めることおよそ70年。昭和12年に勃発した日中戦争を皮切りに、昭和16年には太平洋戦争へと発展し、終戦を迎える昭和20年まで日本は戦争の時代を歩みました。すべてが戦争のために動員され、人びとの生活は年々苦しさを増していきました。この間、神みこしとぎょぎょうれつ輿渡御行列と山やたい車行列の両方が行われたのは昭和17年の一度きりでした。終戦翌年の昭和21年。戦争が終わったとはいえ、まだまだ混乱を極めていた時代。食べ物を満足に入手することも困難だったであろうこのときに、1台の山やたい車が再び姿を表しました。沖の町による「羽はごろも衣」です。このたった1台の山やたい車が、当時の新庄の人びとをいかに元気づけたでしょうか。「羽はごろも衣」に登場する天女が、これから訪れる平和な時代の象徴として人びとの目に映っていたのかもしれません。大正12年(1923年) 関東大震災を受け、山やたい車は各町内に飾るだけとなる昭和12年(1937年) 盧ろこうきょう溝橋事件(日中戦争の発端)発生。時局柄、城内天満宮祭礼中止昭和15年(1940年) 国中が戦時色一色となるなか、皇紀2600年であるため、神み輿こし渡と御ぎょのみ行われた昭和16年(1941年) 太平洋戦争勃発。 山やたい車・神み輿こし渡と御ぎょを中止し、平祭りを実施昭和17年(1942年) 大豊作のため、久しぶりに神み輿こし渡と御ぎょとともに山やたい車が運行。5万人の人出でにぎわう昭和20年(1945年) 太平洋戦争終結昭和21年(1946年)沖の町の山やたい車「羽は衣ごろも」のみが運行沖の町「羽はごろも衣」(昭和21年) 終戦の翌年に見事復活を遂げた山やたい車。物が満足に手に入らなかった時代に、どのような思いでこの山やたい車を完成させたのか。ここにも、新庄に住む人たちを元気づけたいという心意気が感じられます。▲御おんもなり物成大おおよそ凡中なか勘かんちょう帳 現在でいう予算書に近いと考えられる資料。写真は右から安政5年、文久2年、文久3年のもの。

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