新庄藩十代藩主 戸沢正令正室「桃齢院」
鹿児島の薩摩藩主・島津本家から新庄藩に輿入れした桃齢院(貢子)についてご紹介します。

島津家から将軍家に嫁いだ天璋院「篤姫」との関わりを調べてみますと、桃齢院は十一代藩主・島津斉彬(なりあきら/篤姫の養父)の曽祖父・八代藩主重豪 (しげひで)の11女であり、斉彬の大叔母にあたります。また、斉彬と篤姫は従兄弟どうし(後に養女)であり、篤姫にとっても大叔母にあたります。桃齢院 は篤姫より18歳年上です。
桃齢院は13歳のとき新庄藩九代藩主戸沢正胤(まさつぐ)の嫡子・正令(まさよし)と婚姻、江戸新庄藩邸に入り、後に十一代藩主となる正実ら三男をもう けました。十代藩主となった正令が参勤交代のとき江戸で死去したため(在位4年)、貢子は落飾し「桃齢院」を名乗りました。十一代藩主となった正実が幼年 であったため、祖父正胤が正実を後見しましたが、正胤没後は桃齢院が正実を補佐し、藩政に多大な影響力を及ぼしたと思われます。
やがて、戊辰戦争となり、新庄藩は、当初、幕府軍を支持する奥羽(越)列藩同盟に加盟していましたが、後に、急遽、政府軍にくみすることになります。その背景には、桃齢院の実家・島津家との関わりがあったのではないかとも推察されます。戊辰戦争において、一時期、新庄は幕府方の庄内藩に占領されたため、藩主や桃齢院は秋田に逃げ延びました。間もなく実家・島津家が主力の政府軍の勝利となり、桃齢院らは新庄に戻ることができました。
新庄城は焼失していたため、とりあえず藩主は常盤町別邸に、桃齢院は円満寺に仮住まいしましたが、藩主正実は、毎日のように母の元を訪問していることが日記に残されています。明治3年8月、住居としての新庄城が復興されますが、やがて廃藩置県となり、桃齢院も正実の家族らとともに東京に移りました。
新政府による新庄藩への戊辰戦争での評価は、幕府軍に寝返った賊軍とみなされていましたが、後に薩摩藩士・大山格之助などを通じ誤解を解きました。ここにも、桃齢院の尽力が大いにあったのではないかと思われます。
桃齢院が篤姫と対面することがあったかは不明ですが、現在、桃齢院は三田・常林寺(戸沢家菩提寺)に眠っています。
また、桃齢院が輿入れの際持参した雛人形及び雛道具(島津家の家紋入り)が新庄歴史センターに現存しており、毎年雛節句の折に展示されます。
詳細データ
本名 | 島津貢子(こうこ)「貢姫」 文化14年(1817年)3月16日生まれ 明治24年(1891年)1月4日没(法名 桃齢院殿寿源貞操大姉) 戸沢家菩提寺・常林寺(東京・三田)に埋葬 |
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父 | 薩摩藩八代藩主島津重豪(しげひで) 斉彬(なりあきら・十二代藩主・篤姫養父)の曽祖父 |
母 | 側室・牧野千佐 重豪76歳の時の娘で、薩摩藩江戸屋敷(高輪)で生まれた。 篤姫(1835年12月19日から1883年11月20日)とは18歳しか違わない。 |
年表
天保元年(1830年) | 13歳の時、戸沢正胤(新庄藩九代藩主)の長男・正令と婚姻。 江戸の新庄藩邸に入る。天保3年という記録もある。 |
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天保3年(1832年) | 長男・正実(新庄藩十一代藩主)を出産、 天保5年に次男、天保8年に3男を出産。 |
天保11年(1840年) | 正胤隠居し、正令家督。 |
天保14年(1843年) | 正令、参勤交代で新庄から江戸に向かう途中発病、江戸到着直後に死去。 長男・正実が家督を継ぐが、幼年のため、祖父正胤が後見。 貢子は落飾(髪を切り、仏門に入る)し、「桃齢院」を名乗る。 |
安政5年(1858年) | 正胤死去。以後、桃齢院が正実を補佐し、 藩政に多大な影響力を及ぼしたと思われる。 |
文久3年(1863年) | 桃齢院、江戸から新庄に移る。常盤町別邸に居住。 |
慶応3年(1867年) | 大政奉還 |
慶応4年・明治元年(1868年) | 戊辰戦争はじまる(鳥羽・伏見の戦い) |
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