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いきいき新庄人広 報11.10 2006 「受賞したときは、本当にうれしかったです。俳諧の研究を続けてきて良かったと思いました」と語る落合さんは、県立高校の教員を退職後、『やまがた俳諧 独り案内』という県内の近世俳諧の歴史を紹介した研究書を執筆しました。初心者にもわかりやすく俳諧の世界を広く紹介し、今年1月に「第21回真壁仁・野の文化賞」を受賞しました。 「わたしは北海道の生まれですが、東北の文学や歴史を学ぶため山形大学に進学しました。大学の恩師や俳句研究会の友人たちとの出会いがあり、大学を卒業後、教員のかたわら俳諧の研究をはじめました。 俳諧とは俳句の源流といわれるもので、五七五の発句に七七・五七五と句をつないでいく、数人で行う座の文芸です。俳諧と聞くと難しく考えがちですが、江戸時代には、武士や商人など幅広い層の人たちに親しまれていました。俳諧の魅力は、初めて会った人とでも一定のルールにより感性を出し合って交流することができることです。 研究を進めるうちに、300年以上も昔から芭蕉翁をはじめとする文化的な交流があり、俳諧に没頭した人たちがここ新庄・最上にも多くいたことを地域の人たちに知ってもらいたいと思い書きはじめました。 執筆は毎日3~5時間。3年を経て出版することができました。木版本の解読など大変なこともありましたが、専門家に協力してもらいながら、学生やはじめての人にもわかりやすいよう実際の俳諧作品に現代語訳や解説などを付け加えました。また、新庄で活躍していた俳人「 壺人 」こしゃくについても紹介しています。明和6年に作られた「 卯花 うのはな 塚 」という俳諧書を金山の「づか 西田李英 」とともに出版したに し だ り え い人物で、戸沢藩の 御使役 や 物頭役 を勤めた武士「 北条 左 おつかいやく ものがしらやく ほうじょう さ 金太 」だったという推測が、近年発見された『俳人名録』にこんたよって立証されたことなども紹介しています。 俳諧の世界は深く、幕末にかけてまだ解明されていない部分が多くあります。これからも時間をかけて研究を続けていきたいと思います。『やまがた俳諧 独り案内』は市立図書館にもありますので、多くの人に読んでもらいたいです。地域の人や学生が俳諧に親しむきっかけになればと思います」と落合さんはやさしい笑顔で語ってくれました。「俳諧」の世界地域に案内落合 晃さん(栄町) 今年の九月九日・十日の両日、新庄中学校第十一回卒業生の同期会が松島の「大観荘」で開催されました。参加者は五十一名(卒業時点での人数は三百二十名位)。前回の東京での開催以来二年ぶりです。 みんな元気で若々しく六十四歳にはとうてい見えません。宴会でも酒はじゃんじゃん、カラオケばりばり、もちろん夜中まで大騒ぎ。 翌日、小学校の修学旅行と同じコース、「弁天島」をバックに記念写真を撮り、遊覧船で塩釜港に向かいました。船上から見る久々の景色には感動いたしました。塩釜の魚市場では新鮮な魚介類がたくさんあり、みなさん両手一杯買物をしました。 その後、塩釜神社を参拝しホテルへ帰還。二年後、新庄での再会を約束し解散しました。久々に同期生と会い、昔話に花を咲かせ有意義な時間を過ごしました。 最近いじめの問題がマスコミをにぎわせておりますが、われわれの時代にも全く無いかと言えば嘘になりますが、死に至るような陰湿ないじめはありませんでした。 わたしたちが生まれた時代は第二次世界大戦のまっただなか、物資も食料も無く家でゴロゴロしていると親から外で遊んでこいと言われ、いつも近所の仲間数人で日が落ちるまで遊んだものです。 今の子どもたちはパソコン・ゲームなどで自宅に居る時間が多く、外で友人と遊ぶ機会が少なくかわいそうに思います。 最近、新庄北高時代の仲間数人が毎週のように店に来て飲む機会が多いです。 いつも話題は新庄の話になり最近元気が少ない新庄をどうしたら活性化できるかなど議論しております。 何かの時にはご活用ください。中学校の 同期会に参加して新庄藩江戸家老 鏡 弘 道さん(山形プラザゆとり都・そば処出羽香庵店長)

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