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表紙の写真はっけよい のこった! ―新庄小学校相撲大会―9月15日、新庄小学校で相撲大会が開かれました。相撲大会には、1年生から3年生までの子どもたちが参加。秋晴れの青空のもと、土俵上では、子どもたちが元気いっぱいの取り組みを繰り広げました。会場は、父兄や子どもたちの大きな歓声で、興奮と熱気に包まれました。平成22年10月12日号(No.634) ■編集・発行/新庄市 総務課 〒996–8501 新庄市沖の町10–37 TEL.0233–22–2111 ■制作・印刷/共栄印刷株式会社 14,000部発行広報10環境にやさしい大豆油インキを使用しています8月末現在の新庄人39,153人(39,422人)女20,436人(20,584人)男18,717人(18,838人)世帯数13,493世帯(13,486世帯)8月の異動出生20人(025人)死亡35人(043人)転入57人(064人)転出72人(083人)※( )は1年前の住民基本台帳雪ふみ俵ミノゲボウシ〽八十歳して ワラを手に取り今日もまた 手と足動く楽しみにけり  佐吉爺の生まれたところは、雪深い仁田山村。昭和二年十二月下旬、一番と寒い時期にワラの上で生まれたようです。幼いころは、ワラで作った籠かご「エジコ」に入れられたり、ワラの筵むしろの上で遊んだ記憶があります。外に出て遊ぶようになると足あし半なかという大人の足の半分くらいの大きさのぞうりをはいて遊びました。 昭和九年四月に小学校入学。この年は大凶作で、ダイコン飯を食べ、雨が降っても足半ばきでの通学でした。家には立派な衣類もありませんでしたが、学校には元気に通いました。冬になると、お父さんが作ってくれたワラ半長くつをはいての通学。 四・五年生になると、縄ないや足半・ぞうり・雪くつ(ジンベ)などの作り方を教えてもらい、姉や弟と協力して作ったものです。冬の間、農家はどこの家でもワラ仕事。一年分の足半やぞうりを作ります。また、牛馬に使う用具もたくさん作りました。ワラは牛馬の食料でもあり農家の必需品でした。 昭和十六年、太平洋戦争が始まり、物資もなくなってきました。翌昭和十七年三月に卒業、百姓一年生となり、冬は米俵と作業着となるミノ、足半やぞうりなどあらゆるワラの用具を作りました。 田畑の仕事に出るときは、みんな足半。山仕事はワラジで、冬仕事は雪くつ、現代のようなくつ下もなく素足にはいて仕事をしたものです。頑丈な足です。 昭和三十五年ころより農業の機械化が始まり、ワラ仕事も消え、すべてナイロンやビニール製品の生活に様変わりしました。 昭和六十三年、新庄ふるさと歴史センターに「民具研究会」が発足。わたしも会員として入会しました。先人が作ったワラの民具を手に取って見たときに、昔を思い出してわたしも作り始めました。 写真は、数年前に作った雪ふみ俵とミノゲボウシです。 〽先人の 手づくり民具 手に取りて 文化の歴史 想い知りざる佐吉爺の民あれこれ具さきちじい雪とまつりのふるさと新庄の先人たちは、知恵と技術を凝縮して 機能的で美しい民具をつくりだし、その文化は、現代も継承されています。 民具の使い方や機能について、当時の暮らしぶりなどをまじえて紹介します。解説:伊藤佐吉さん(仁田山)

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