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5広報8.9 2012  ネタでふるさとめぐり小特別編められて間もない一七七〇年(明和八年)に松本村の人たちが建てたものだ。あたかも「豊年瑞ずいそうき相記」の記述を証明しているようだ。 この宝暦の飢饉の悲惨さを表す人口推計がある。「新庄領村むらかがみ鑑(吉村本)」という今でいえば「統計で見る新庄市」の領内版といったものだが、飢饉直前の領内人口は五万二千百三十五人で、飢饉後に記録された最初の年である宝暦九年は四万五千三百六十六人と六千七百六十九人減少している。時の五代藩主戸沢正まさのぶ諶は、赤子養育米を支給するなどの子育て政策を実施し、以後も藩では人口増加を図る施策を講じたが、村鑑の記録によれば六十年後も元の人口に戻れなかったようだ。 「豊年瑞ずいそうき相記」の中には、大飢饉の翌年九月二十五日に、「五穀成就・領内安全」の願いを込めて新庄城内天満宮の新祭が行われたことも書かれている。今も続けられている新庄まつりの起源と、宝暦の大飢饉の関係が見て取れる記述だ。また、藩主正まさのぶ諶が城内天満宮に納めた祈願札に、宝暦六年九月二十五日に天満宮の新祭を行ったことが書かれていて、新庄まつりの起源の根拠のひとつになっている。なお、祭礼は翌年から七月二十五日に行われ、藩政時代は、藩主の参勤交代が一年おきのため在国中の隔年に実施され、戦後になって現在の八月二十五日に行われるようになるが、いずれの日も本祭りでは天満宮前広場での出発式のあと、まずは神輿渡御行列、その後山車行列が続く(8月25日/最上公園)戸沢正諶公の墓(新庄藩主戸沢家墓所/太田)天満宮の縁日の日である。 また、「豊年瑞ずいそうき相記」にある餓死者を埋めたという接しょういん引寺に「まかどの地蔵」と呼ばれるお地蔵様が安置されている。この「まかどの地蔵」という名称は、元は城下入り口の曲がり角にあったことからこの名が付いたと言われている。このお地蔵様の口元をよく見ると何かで汚れている。これは、彼岸の中日に近在の人々が、お地蔵様に、あんこの付いたぼた餅を食べさせるという風習があり、そのあんこが口元に残っているためだ。この風習は、古くから飢饉により飢えや疫病で苦しんで亡くなった人々を供養するために行われているのだが、それだけではなく、二百五十年余り前の悲惨な出来事の記憶の風化を防ぐために行われているのかもしれない。まかどの地蔵(接引寺)口元が汚れているのが見える

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