新庄城は、新庄藩祖戸沢政盛が築いたもので、寛永二年(1625)の完成と伝えられています。
本丸は東西52間、南北127間、正面奥に天守櫓がそびえ、周囲は堀と土居で囲まれ、三隅に櫓を有する平城でしたが、寛永十三年(1636)の火災以来天守櫓は再建されませんでした。
本丸の東側に二の丸・三の丸が設けられ、侍町を形成し、その外側に町人町がおかれました。
新庄城は243年間、戸沢氏の居城として新庄藩政の中心となりましたが、戊辰戦争に際して、庄内勢に攻められ、市街地もろとも消失してしまいました。
その後、本丸には新庄学校、郡会議事堂などが建てられましたが、現在は戸沢神社、天満神社、護国神社が祀られ、最上公園の名で親しまれています。
二の丸跡は新庄小学校、新庄北高等学校、新庄南高等学校の敷地になりましたが、その後、小学校、新庄北高等学校はほかに移り、市民文化会館、ふるさと歴史センターが建っています。
天満神社(県指定建造物)
新庄城址本丸跡の南西隅にある天満神社は、戸沢家の氏神として、旧領秋田県角館時代から尊崇された神社です。
同社の棟札に新庄築城の3年後にあたる寛永五年(1628)に初代藩主政盛が建立したと、また別の棟札に寛文八年(1668)に二代藩主正誠が再興したと記されています。
宝暦六年(1756)の願文に同年の9月25日に新祭を営んで、領内泰平風雨順時五穀成就諸人快楽を祈ったことが記されていて、これが新庄まつりのはじまりといわれています。
戸沢神社
戸沢神社は明治二十六年創建にかかり、翌二十七年に完成しました。 祭神は、戸沢家始祖衡盛と藩祖政盛、十一代正実を祀っています。
衡盛は保元の乱に敗れて斬られた平忠正の子平九郎通正の忘れ遺子で、木曾義仲に従い、源頼朝に仕え、やがて岩手県雫石に落ち着き、姓は地名をとって「戸沢」と称したといわれています。
藩祖政盛は、秋田県角館の城主盛安の子で、長じて徳川家康に従い、数々の功を認められて茨城県松岡四万石に封じられ、鳥居忠政の妹を嫁にとり、幕府の信頼を一層深めました。山形の最上氏改易に伴って転封され、六万八千二百石を領して新庄に築城を許され、新庄藩の基を築き、郷土発展の礎を固めました。 正実は年若くして藩主となり、長じて維新の
変動期に際し、官軍に属し、庄内勢により落城、城下は戦火に全滅の悲運に遭いました。明治二年三月二十七日藩籍を奉還し、六月二十九日新庄藩知事に任命され、明治四年新庄県となり、同年山形県に合併され、明治五年八月、命によって正実は東京に移住しました。
旧領民はこの三方を祭神にし、戸沢神社として祀りました。
ちなみに、戊辰戦争に官軍の旗印として与えられた菊花御紋の旗が宝物として保存されていますが、この旗は靖国神社と戸沢神社にしかないと言われています。
護国神社
護国神社は、戊辰戦争以来の戦死者を祀っています。この神社は、明治二年、新庄藩主正実が、前年の戊辰戦争の戦死者五十六名を祀る神社として、太田の瑞雲院境内に建てたのが始まりです。その後、明治十六年、遺族などの希望によって吉川町に移されましたが、明治二十四年、三転して現在地に移されました。
- 戊辰戦争 56名
- 日清戦争 56名
- 日露戦争 120名
- 日中戦争・太平洋戦争 734名
新庄城址(最上公園)で行われるイベントについては下記関連リンクをご覧ください。
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