元和8年(1622)、山形藩最上氏の改易によって、最上氏の旧領は山形藩主となった鳥居忠政を旗頭としてその縁戚に与えられ、常州松岡藩主であった戸沢政盛が新庄藩6万石(のちに6万8200石)の藩主となりました。その後、新庄藩は11代、約250年わたって続きました。
歴代藩主(11代)
藩主 | 通称 (幼名) |
享年 | 生没年 | 藩主就任・退任年 | |
初代 | 政盛 | 九郎五郎 | 64 | 天正13(1585)年 ~慶安1(1648)年 |
元和8(1622)年 ~慶安1(1648)年 |
2代 | 正誠 | 千代鶴 | 83 | 寛永17(1640)年 ~享保7(1722)年 |
慶安3(1650)年 ~宝永7(1710)年 |
3代 | 正庸 | 内記 | 77 | 寛文4(1664)年 ~元文5(1740)年 |
宝永7(1710)年 ~元文2(1737)年 |
4代 | 正勝 | 六三郎 | 24 | 享保7(1722)年 ~延享2(1745)年 |
元文2(1737)年 ~延享2(1745)年 |
5代 | 正のぶ※ | 猪野七郎 | 44 | 享保7(1722)年 ~明和2(1765)年 |
延享2(1745)年 ~明和2(1765)年 |
6代 | 正産 | 孝次朗 | 21 | 宝暦10(1760)年 ~安永9(1780)年 |
明和2(1765)年~ 安永9(1780)年 |
7代 | 正良 | 左京 | 25 | 宝暦12(1762)年 ~天明6(1786)年 |
安永9(1780)年 ~天明6(1786)年 |
8代 | 正親 | 城之進 | 40 | 宝暦7(1757)年 ~寛政8(1796)年 |
天明6(1786)年 ~寛政8(1796)年 |
9代 | 正胤 | 金太郎 | 67 | 寛政4(1792)年 ~安政5(1858)年 |
寛政8(1796)年 ~天保11(1840)年 |
10代 | 正令 | 千代鶴 | 31 | 文化10(1813)年 ~天保14(1843)年 |
天保11(1840)年 ~天保14(1843)年 |
11代 | 正実 | 千代鶴 | 65 | 天保3(1833)年 ~明治29(1896)年 |
天保14(1844)年 ~明治2(1869)年 |
(「新庄市史資料編(上)」(433~435頁)を基に作成)
※のぶは言べんに甚
新庄藩略年表
安土桃山時代(藩政以前)
江戸時代前期(1603~1680)
江戸時代中期(1681~1780)
江戸時代後期(1781~1867)
明治時代(藩政以降)
安土桃山時代(藩政以前)
藩主 | 西暦 | 和暦 | 事項 |
- |
1590 | 天正18 | 戸沢盛安(政盛の父)、秀吉の小田原攻めへの参陣中に死去(22歳)。 |
1591 | 天正19 | 盛安の弟戸沢九郎(のちの光盛)、秀吉より石高による正式な領知朱印状を賜る。 | |
1592 |
文禄1 |
秀吉の朝鮮出兵に際し、戸沢光盛も肥前名護屋(現佐賀県鎮西市)に参陣したが、途中姫路にて疱瘡にかかり、明石にて病没(17歳)。 | |
1593 | 文禄2 | 戸沢安盛(のちの政盛)、跡目相続の朱印状を秀吉より賜る。 | |
1600 | 慶長5 | ●関ヶ原の戦い起こる。 | |
1602 |
慶長7 |
戸沢安盛(のちの政盛)、関ヶ原の戦いの論功行賞により常陸国(茨城県)へ転封。常州多賀郡松岡3万3千石、同茨城郡の内小河7千石、計4万石を賜る。 |
江戸時代前期(1603~1680)
藩主 | 西暦 | 和暦 | 事項 |
- |
1603 | 慶長8 | ●江戸幕府の成立。徳川家康が初代将軍となる。 |
1607 |
慶長12 |
戸沢安盛(のちの政盛)、多賀郡下手綱村(現高萩市)の竜子山城を修復、松岡城と改め小河城より移る。 | |
1611 | 慶長16 | 最上義光、清水領・小国領・庄内三郡などで検地を実施。 | |
1614 |
慶長19 |
最上義光、山形城内で死去。 | |
清水城主七代清水義親、山形城主最上家親に滅ぼされる。滅亡後は、左沢城主日野将監が新庄に移り、最上氏の蔵入地となった清水遺領を管理。 | |||
1615 |
慶長20 |
大坂夏の陣起こる。戸沢政盛、命により松平康元・鳥居忠政・土岐定吉らとともに江戸城を守衛する。 | |
1617 |
元和3 |
戸沢政盛、日光東照宮御廟造営手伝いを命じられる。日光東照宮に石灯篭1基を寄進する。 | |
1622 |
元和8 |
山形城主最上義俊、改易。 | |
初代 |
戸沢政盛(新庄藩祖)、出羽国最上・村山二郡に転封を命じられる(高6万石)。 | ||
1623 | 元和9 | 戸沢政盛、出羽国最上郡に入部し、真室城に入る。 | |
1624 |
寛永1 |
戸沢政盛、最上郡内の新荘(新庄)・清水・升形の三古城のいずれかに築城したい旨の願いが許され、新荘を城地と定める。 | |
戸沢政盛の伯父甚盛法印、円満寺開基(藩主戸沢氏の祈願寺)。 | |||
新田村泉田村の田水確保のため、吉沢大堤が藩の手によって築かれる。 | |||
赤坂村開村。 | |||
1625 |
寛永2 |
山形城主鳥居忠政の縄張り(設計)により、新庄城完成。 | |
最上・村山両郡のうち改出(新たに検出された田畑)2,200石、開発新田6,000石、計8,200石の朱印状を賜り、領内総高は6万8千200石となる。 | |||
泉田村開村。 | |||
1628 | 寛永5 | 戸沢政盛、天満宮(藩主戸沢氏の氏神、領内総鎮守)を城内に造営。 | |
1629 |
寛永6 |
新庄城の外曲輪(外郭)の惣堀土居(堀の土手)を築くことを願い出て、許される。 | |
作事所より出火。新庄城の本丸・二の丸・惣矢倉・家中町まで残らず焼失。 | |||
1636 |
寛永13 |
新庄侍屋敷より出火、居城残らず焼失。この火事で本丸・二の丸・天守櫓ともに焼失し、以後、天守櫓は再建されず。 | |
1638 | 寛永15 | 戸沢定盛(政盛の養子)、荒小屋八幡宮を鳥越に移し、鳥越八幡神社本殿を建立する。 | |
1645 | 正保2 | 「出羽国新城絵図」を幕府に上納。 | |
1648 |
正保5 | 初代藩主戸沢政盛、江戸桜田藩邸に没す(64歳)。遺骸は三田常林寺に葬られる。 | |
慶安1 | 戸沢政盛の遺骨、瑞雲院(太田)に送葬。 | ||
二代 |
1650 | 慶安3 | 二代藩主戸沢正誠、父政盛の遺領を賜る。 |
1657 |
明暦3 |
城下町大改造。松本町・山口町(上・下金沢町辺)の侍屋敷を神明町・水上町・寄合町(三本橋辺)に移す。 | |
1659 |
万治2 |
新庄藩覚(山林保護に関するお触れ)布達。領民の自由な山林伐採を禁じ、伐採には藩の許可が必要であることを明示。 | |
1664 |
寛文4 |
幕府の許しを得て、新庄城の改築を行う(本丸の表門・裏門を櫓門に改築、3か所の隅櫓と二の郭の南門・北門を修復)。 | |
1668 |
寛文8 |
新庄藩覚(寛文の御触書)布達。領民に質素倹約を命じ、村役人の不正を戒めた九ヵ条にわたる御触書。 | |
城内天満宮再建(現存のもの)。 | |||
1671 | 寛文11 | 神田村(戸沢村)から移住した中鉢与五左衛門、西山村を開発。 | |
1678 | 延宝6 | 領内における検地の統一基準を示した「検地条目」を布達。 | |
1680 | 延宝8 | 城内天満宮を吉川町に分祀。 |
江戸時代中期(1681~1780)
藩主 | 西暦 | 和暦 | 事項 |
二代 |
1683 |
天和3 |
田畑の生産高を表す指標を従来の「刈束法」から「石盛法」に変え、近世的な年貢収取制度を確立。 |
1686 | 貞享3 | 戸沢正誠、愛児政武が葬られた万年寺(太田)を西山に移し、香雲山桂嶽寺と改める。 | |
1689 |
元禄2 |
俳聖松尾芭蕉、門人曽良を伴って来新。風流亭(澁谷甚兵衛宅)に2泊し、本合海から舟で最上川を下り羽黒山に向かう。 | |
1691 | 元禄4 | 戸沢正誠、鳥越八幡神社拝殿を造営。 | |
1694 | 元禄7 | 堕胎・捨て子禁止の御触書布達。 | |
1700 |
元禄13 |
4ヵ年かけて完成させた「新庄領内絵図」を幕府に上納。 | |
年貢収納高13万273俵余、藩政期を通じ最高。 | |||
1701 | 元禄14 | 金山町古城神明宮を新庄城下に奉遷(現在の「神明町」の由来)。 | |
1703 | 元禄16 | 人高(人口)5万8,511人。藩政期を通じ最高。 | |
1704 | 宝永1 | 瑞雲院、寺地を街道の西より東(現在の場所)に移し再建。 | |
1708 | 宝永5 | 戸沢正誠の隠居所・常盤丁別邸完成。 | |
三代 |
1710 |
宝永7 |
二代藩主戸沢正誠、幕府に隠居願いを上申。家督を正庸(三代)に賜る。 |
藩財政逼迫のため、藩士からの「借上令」を布達。 | |||
1712 | 正徳2 | 領内全域の土地改めが行われ、「正徳の地方帳」が整えられる。 | |
1713 |
正徳3 |
新庄藩覚(正徳の御触書)布達。新庄藩の基本的な農民法令。 | |
新庄藩覚(条々)布達。万治2年(1659)の覚に次ぐ、山林保護に関するより一般的・包括的な法令。以後、山林法令の基本となる。 | |||
1718 |
享保3 |
新庄藩覚(郷村への達し)布達。藩役人への賄い(村々が提供する食事)を質素にするよう倹約令を発する。 | |
新庄藩覚(衣類に関する倹約令)布達。藩士及び町在(町人・農民)の絹布着用などを禁止。 | |||
1722 |
享保7 |
二代藩主戸沢正誠、常盤丁別邸にて死去(83歳)。桂嶽寺(西山)に葬られる。 | |
新庄藩覚(享保の棄捐令)布達。借財に苦しむ農民・町人を救済する一種の棄捐令(個人の貸借を破棄させる法令)とも言うべき御触書。 | |||
1723 | 享保8 | 領内の番所改めの徹底を命じ、藩の交通規制が体系化される。 | |
1733 | 享保18 | 赤子の間引き・捨て子禁止の御触書布達 | |
1736 | 元文1 | 越後国から移った農民が、中山村を開く。 | |
四代 |
1737 | 元文2 | 三代藩主戸沢正庸の隠居が許され、家督を正勝に賜る。 |
1740 | 元文5 | 三代藩主戸沢正庸、新庄にて死去(77歳)。遺骸は瑞雲院に葬られる。 | |
1745 |
延享2 |
四代藩主戸沢正勝、死去(24歳)。三田常林寺に葬られ、後日、瑞雲院に分骨。 | |
五代 |
五代藩主戸沢正のぶ(※言べんに甚)、兄正勝の遺領を賜る。 | ||
1755 | 宝暦5 | 宝暦の飢饉(大凶作)。「亥年の飢渇」と呼ばれる大飢饉。 | |
1756 |
宝暦6 |
前年の大飢饉で打ちひしがれた領民を鼓舞するため、城内天満宮祭り始まる。新庄まつりの起源。 | |
1763 | 宝暦13 | 戸沢正のぶ(※言べんに甚)、円満寺を再建。 | |
明和年間 | 戸沢正のぶ(※言べんに甚)が、初めて藩校(のちに明倫堂と称する)を創設する。 | ||
1765
|
明和2
|
五代藩主戸沢正のぶ(※言べんに甚)、江戸にて死去(44歳)。三田常林寺に葬られる。 | |
六代 |
六代藩主戸沢正産、正のぶ(※言べんに甚)の遺領を賜る。5歳の幼年で藩主となる。 | ||
1770 | 明和7 | 角沢街道に、松本村の有志が餓死者供養碑を造立する。 | |
1774 |
安永3 |
「囲籾の制(非常時に備え、村ごとに一定量の籾を貯えること)」を始める(安永の改革)。 | |
1776 | 安永5 | 「安永の地押(領内一円に及ぶ地方改め)」の実施(安永の改革)。 | |
1777 |
安永6 |
家中・領内への包括的な倹約令を布達(安永の改革)。 | |
農民の離村禁止令を布達(安永の改革)。 | |||
1780 |
安永9 |
六代藩主戸沢正産、新庄において死去(21歳)。遺骸は瑞雲院に葬られる。 | |
七代 正良 |
七代藩主戸沢正良、兄正産の遺領を賜る。 |
江戸時代後期(1781~1867)
藩主 | 西暦 | 和暦 | 事項 |
七代 |
1782 | 天明2 | 離村禁止・倹約令を布達。 |
1783 | 天明3 | 天明の飢饉(大凶作)。宝暦の飢饉(1755)と並んで、領民に大きな打撃を与えた。 | |
1786 | 天明6 | 七代藩主戸沢正良、新庄にて死去(25歳)。瑞雲院に葬られる。 | |
八代 |
1786 | 天明6 | 八代藩主戸沢正親、正良の遺領を賜る。 |
1791 | 寛政3 | 幕府の倹約令を手本とした倹約令「条々」を布達。領民の質素倹約を促す。 | |
1792 | 寛政4 | 伊勢参宮・善光寺参りなどを口実とした離村禁止令を布達。 | |
1793 | 寛政5 | 領内旅行取り締まり、商品仕入れ場所制限の御触書を布達。 | |
1796 |
寛政8 |
八代藩主戸沢正親、新庄にて死去(40歳)。瑞雲院に葬られる。 | |
九代 |
九代藩主戸沢正胤、父正親の遺領を賜る。5歳の幼年で藩主となる。 | ||
1804 | 文化1 | 鳥海山噴火、噴煙3年間消えず。新庄でも板戸が開かぬほどの大地震が続く。 | |
1805 |
文化2 |
最も包括的な農民法令「条々」布達。(一味徒党の禁令ほか) | |
「赤子無尽」の制度を設ける。(町・在の富裕な者から募った米1,500俵を基に、その利米を赤子養育米として困窮者に給付。) | |||
1809 | 文化6 | 新庄城下の定期市日の御触書を布達。 | |
1816 | 文化13 | 角沢街道に、宝暦・天明両飢饉の餓死者の供養碑建立(角沢街道の丸仏)。 | |
1833 |
天保4 |
「天下の口を干す」といわれた、天保の飢饉(大凶作)。 宝暦の飢饉(1755)、天明の飢饉(1783)とともに「江戸時代の三大飢饉」として今に語り伝えられている。 | |
十代 |
1840 | 天保11 | 十代藩主戸沢正令、父正胤隠居の跡をうけて家督を相続する。 |
1841 |
天保12 |
越後(新潟県)出身の陶工涌井弥兵衛が、藩の瓦師に召抱えられ、翌年、瓦師奉公のかたわら、東山での製陶を始める。 | |
1842 | 天保13 | 堕胎・間引きの厳格な禁令を布達。 | |
1843 |
天保14 |
十代藩主戸沢正令、参府の途中病気になり、江戸藩邸にて死去(31歳)。三田常林寺に葬られる。 | |
十一代 |
十一代藩主戸沢正実、12歳で正令の遺領を賜る。 幼年のため、祖父正胤が後見役となり、政務を補佐する。 | ||
新庄藩、藩札発行。新庄領米会所発行の米代銀札4種と産物会所発行の銀札3種、計7種。 | |||
1845 |
弘化2 |
国産奨励の仕法人として米沢領勧進代村遠藤仁右衛門を招き、桑樹・漆樹植立て、養蚕などの指導を受ける。 | |
藩政改革のため新設された御手元並郷中御備米掛の主任として、家老吉高勘解由を任命する。 | |||
凶作に備えて米穀を蓄えておく「備荒貯穀の制度」を確立。 | |||
1846 |
弘化3 |
家中への倹約令を布達。衣服の倹約、祝儀は一汁一菜、仏事の簡素化、家中への贈り物の禁止、宿泊者の届出などからなる倹約令。 | |
1848 |
嘉永1 |
嘉永の改革の一環として、役所の大幅な改廃が行われ、藩士への俸禄が「面扶持制(禄高にかかわらず、家族1人につき1日5合を支給)」となる。 | |
1851 | 嘉永4 | 領内各郷に村備籾の助成金を与える。 | |
1853 | 嘉永6 | 国産奨励の仕法人として招いた米沢領の篤農家遠藤仁右衛門の指導で、紫山(舟形町)開墾始まる。 | |
1858 | 安政5 | 九代藩主戸沢正胤、常盤町別邸にて死去(67歳)。瑞雲院に葬られる。 | |
1867 | 慶応3 | 大政奉還(徳川慶喜、朝廷へ政権返上)。 |
明治時代(1868~)
藩主 | 西暦 | 和暦 | 事項 |
十一代 |
1868 |
慶応4 |
●鳥羽伏見の戦い(戊辰戦争はじまる)。 |
清川口合戦。 奥羽鎮撫沢為量副総督軍、最上川を下り庄内領への進攻行を企て、立谷沢川を挟んで激しい銃撃戦を交えた。 | |||
米沢藩・仙台藩の呼びかけで、「奥羽列藩同盟結成会議」(14藩加盟)を開催。 | |||
奥羽25藩、仙台で会議を開き、仙台藩を盟主とする「奥羽列藩同盟」が成立。5月6日には、新たに奥羽11藩と北越地方6藩が加盟し、「奥羽越列藩同盟」成立。 | |||
秋田の官軍、新庄奪還をはかり進撃開始。新庄藩、同盟側先鋒として大滝(真室川町)に滞陣するが、銀山(秋田県雄勝町)越えの官軍を攻撃せず、官軍と一隊となって新庄に進む。(事実上の同盟離脱) | |||
新庄藩、大滝の合戦で官軍側につく。同盟軍、及位口(真室川町)・主寝坂峠・森合峠(金山町)の合戦に破れ、総崩れとなり、多くが庄内領に逃れる。 | |||
同盟軍、態勢をたて直し、新庄に進攻。舟形口・福田・仁間方面から一斉に城下に攻め入り、官軍・新庄兵はこれに激しく抵抗するが、進撃を食い止められず。 | |||
新庄城落城。藩主一行、秋田領に逃れる。 | |||
明治1 |
秋田進攻中の庄内勢の撤退を受け、秋田転陣の官軍が総反撃に転ずる。 | ||
薩州藩西郷吉之助(隆盛)隊700名、庄内討ち入りのため、本合海村へ宿陣。 | |||
庄内藩降伏(これにより、東北地方の戊辰戦争終わる)。 | |||
藩主一行、新庄へ帰国。 | |||
新庄藩、戊辰戦争による被害を政府に届け出る。(城郭は2つの隅櫓・天満宮を除き焼失、備籾土蔵14棟・12万6,300俵余、侍屋敷516件をはじめ、壊滅的状況)。 | |||
1869 |
明治2 |
戸沢正実、戊辰戦争の折、官軍方に与した戦功により、維新政府から御賞典禄1万5千石を下賜される。 | |
版籍奉還が聴許され、戸沢正実、新庄藩知事に任ぜられる。 | |||
1870 | 明治3 | 戸沢正実、旧藩士の生活維持のために常盤町別邸に授産場を設け、機織りや傘張りなどを習わせる。 | |
1871 |
明治4 |
戸沢正実、戊辰戦争の戦死者を祀るため、招魂場(のちの新庄護国神社)を瑞雲院境内に建立。明治11年に吉川町天満神社境内、大正4年に旧新庄城址内に遷座。 | |
新庄藩が廃され、新庄県となる。(廃藩置県) | |||
- | 新庄県、山形県に編入(第二次山形県)。山形県新庄出張所(明治6年新庄支庁と改称)を旧城内に置く。 |
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