雪害救済運動の発端
当時の社会情勢
大正時代の終わりから昭和10年ころは、凶作と慢性的な米価下落で、東北農村はかなり疲弊していました。小作争議が頻発。また、世界大恐慌により、たいへんな不況となりました。生活が楽でないため、娘の身売りなども頻繁にありました。
雪害調査
松岡は、積雪地と雪の無いところとの比較調査を実施しました。その結果、雪国では、1年に1作しか収穫できないのに地租(固定資産税)が雪の無いところと変わらなかったり、雪のため色々な費用がかかったり、災害にあっ ても、それを補う制度が無いことがわかりました。
松岡の主張するところ
- 地主と小作人の対立について 両方の言い分は分かるが、そもそも雪国全体の収入が低いため、その少ないパイの分捕り合戦をしているだけである。地主も小作人も、まず、雪国全体の生活向上のため運動すべきだ。
- ‘雪害’ばかりでない‘雪利’もあるではないかという意見にだいて とくに有識者の中には、雪があることによる利益もあるではないか、という者も多かったが、松岡は、そうしたことを認めた上で、それでも、雪国であるがために被る不利益が大きすぎることが、政治問題であると主張した。
- 凶作が起こらないような対策をとれ 東北地方は当時、凶作になるとほとんど収穫がなく、政府は義援金などを送るだけでした。農業技術の向上や経営を安定させることが必要だ。そのためには、雪国そのものの研究・指導機関が必要だ。 たとえば、南の地方での台風災害などに対しては法的な支援がすでに行われていた。
新庄での講演
雪行脚
- 聴衆の人数 約25,000人 (判明しているだけで20,000人)
- 講演の回数 83回
- 有力者への協力依頼 61回
松岡俊三と雪害救済運動 統計は「雪の日本社」発行の『雪の日本』に連載された「雪行脚の記」を参考にしました。
雪害に関する様々な建議・請願とその結果
以下は代表的なものです。
昭和4年 | 2月「雪害調査機関設置に関する建議案」 | 3月、衆議院本会議で満場一致で可決。 予備金支出をもって調査会設置を決議。 |
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昭和5年 | 4月「雪害建白書」を有力者4,000名に配布 山形県町村会より雪害確認の請願 |
5月5日、貴族院は雪害請願可決 義務教育費国庫負担法“雪害”の2文字加わる |
昭和6年 | 2月青森県松岡後援会より「雪害関係法律改正」の請願。1道11県4万人の署名 | 2月、衆議院・貴族院ともに満場一致で採択。 |
昭和7年 | 1月「雪害第二建白書」を朝野の識者に配布 6月、「雪国日本の根本対策建議案」を衆議院に提出 |
政府による雪害調査会の設置。衆議院で、東北全町村を特別町村に指定、交付金の増額。「雪害地農山漁家経済更正機関」の設置の予算通過。 |
最上郡雪害救済期成聨(れん)盟
松岡の考え方に共鳴した新庄の若者たちは、松岡が調査した「雪害統計」「雪害図表」などを使って地元への運動を始めました。メンバーは五十嵐源三郎、奥山新太郎、吉田芳彦らです。。彼らは最上郡革新青年同盟を組織していましたが、松岡が雪の行脚を始めて、まもなく、『最上郡雪害救済期成聯盟』を組織しました。昭和5年12月のことです。そして、翌年1月18日~20日までの3日間、新庄の善正寺において雪害問題を中心とした「山形県最上郡の常識講座」という合宿をしました。松岡とともに39名の若者が、彼と寝起きを共にして、今後の運動に備えました。その後は、このメンバーを中心にして、地元や国・県あるいは視察団への雪害運動を働きかけたりしました。しかし、なかなか、雪害ということを理解してもらうのは困難でした。
地元の運動家の手記より
「当時は雪害ということが何の意味かトントわからぬものが大部分だった(吉田芳彦 記)」 「新庄青年は雪害問題について・・・松岡先生が代議士の運動に来ていると思っている (小野恵敏 記)」と、なかなか運動が根づかないあせりを感じていたようです。
積雪地方農村経済調査所の開設
彼らの運動が効をなして、雪国の人たちの生活を良くするための国の機関「積雪地方農村経済調査所」が、昭和8年9月15日、この新庄の地に開設となりました。この機関の設置には山形県内ばかりでなく、東北各県・北陸などでも誘致運動が繰り広げられましたが、一番運動が熱心な新庄に決定しました。
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