世界的にも有名なモダニズム・インテリアデザイナーのパイオニアであるフランスのシャルロット・ペリアンと山形・新庄は、なぜ関わりがあるのか?不思議に感じる方も多いことでしょう。それは、この地にあった『積雪地方農村経済調査所(雪調)』と民芸運動、そして、ペリアンの来日という3者の出会いがあったのです。
ペリアンの来日
ペリアンは世界的な建築家ル・コルビュジエに認められ、10年間、彼のアトリエで活躍していました。彼女はそこで一緒に働いていた戦後日本の代表的な建築家坂倉準三と前川國男と出会います。昭和15年、日本の商工省(現通産省)貿易局は日本製品の貿易振興のため、海外からデザイナーを招いて輸出品の開発にあたらせることを検討していました。当時、輸出工芸連合会にいた柳宗悦の長男・柳宗理(現工業デザイナー・日本民藝館長)はその相談を持ち掛けられ、坂倉に相談し、ペリアンが来日することとなりました。
ペリアン、新庄に来る
ペリアンは昭和15年8月に日本に到着するや、柳宗理とともに日本各地を視察し、10月、新庄にやってきます。当時、雪調では雪国各地の民芸品を収集しており、ペリアンはその技術の高さと芸術性にいたく感心しました。雪調の山口所長は彼女に「雪国の人々に方策を与えてほしい」旨、お願いしました。そして、形と寸法・用途を地元の農家に伝え、寝椅子などの作品が出来上がりました。地元の材料と技術を生かした新しい用途の作品です。ペリアンはただ単に民芸品を製作・販売するのではなく、インテリアなどの調度品に応用できないかと考えたのです。
ペリアンによる展覧会『創造・伝統・選択』
戦時色が強くなった昭和16年3月、商工省はペリアンとの契約を続けることができなくなりました。それでも、滞在7ヵ月でペリアンは東京と大阪の高島屋で『創造・伝統・選択』という展覧会を開きます。意図するところは、「伝統技能を生かして、新しい生活にあうように選択し、創造する」ということです。
この展覧会は日本のデザイナーたちに大きな影響を与えました。また、戦後、通産省によるグッドデザイン賞の原点になったとのことです。
ペリアンの離日と民芸運動の終焉
昭和16年12月、日本は太平洋戦争に突入しました。ペリアンはフランスへの帰国船がなく、しかたなく、昭和17年、仏領インドシナ(ベトナム)で4年間ほど暮らします。また、雪調を中心とした民芸開発も戦時下の物資統制、行政機構の改編などで自然消滅の憂き目をみることとなりました。
戦後のペリアン
昭和30年、ペリアンは『ル・コルビュジエ レジェ ペリアン 3人展』で再来日します。また、その後、パリ日本公邸を坂倉準三と共同でデザインしたり、パリ・ユネスコ本部の大茶会での茶室をデザインしたり、精力的に活動します。
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