
堤林数衛(つつみばやしかずえ)
1873年(明治6年)から1938年(昭和13年)
新庄市(旧新庄町)宮内町の旧藩士槍術師範堤林繁美の長男として生まれる。
台湾(中華民国)に渡り、炭鉱を発見するなど事業に成功し、35歳で故郷に錦を飾った。
1909年(明治42年)、国家の将来のためにと15名の青年をひきいてジャワ島にわたり、南洋商会を設立。一時は南洋各地に40数支店をつくったが、世界的な経済恐慌によって1928年(昭和3年)に倒産。築き上げた財産は、すべて従業員にわけあたえた。
新庄の上西山に建つ胸像は、昭和51年、当時の社員たちで組織するジャカルタの会によるものである。
<新庄ふるさと歴史センター郷土人物館より>
堤林和衛の生涯
台湾での成功
堤林数衛は、旧新庄藩士槍術師範、堤林繁美の長男として、明治6年、市内宮内丁(現在の城南町あたり)で生まれました。明治29年に台湾に渡った彼は、香港やシンガポール、ジャワなどに支店を持っていた台湾の貿易商、郭春秧(かくしゅんおう)と交際を深め、その後援を得ながら大きな成功を収めました。
その後、明治40年からの2年間は日本で過ごします。読書に努め、宗教に関する知識を吸収した彼は、明治41年にキリスト教に入信しました。そして、台湾で培った知識や経験を生かして社会に尽くすのが自分の使命だと思うようになりました。それが、南洋で活躍する青年の養成に尽くしたいという決意につながるのです。
堤林和衛と南洋(ミクロネシア諸島)の海

明治42年、彼は、選抜した15人の青少年を率いてジャワ(インドネシア)で会社「南洋商会」を興しました。
会社は農業経営なども含めた事業を次々と展開しながら拡大し、支店40か所、従業員300人余りにまで成長しました。
そして、彼の海外進出がもたらした日本産業への貢献が認められ、大正13年には、日本産業協会から表彰されました。
しかし、大正8年ごろに発生した世界経済恐慌の影響を受け、昭和3年に会社は解散してしまいます。
やむなく引き上げざるを得なかった彼は、このとき、共に働いた部下たちに全財産を分け与えて帰国しました。帰国後は伊豆大島や小笠原諸島で、農園開設や水産業、さらには発電事業などに取り組みました。
昭和12年、解散後も現地に残った社員など、関わりが深かった人々500名が、彼を再びジャワに迎えようと「南洋同人会」を組織しました。しかしそれは実現できず、翌年1月、病が重くなった彼は、小笠原でその生涯を閉じました。享年66歳でした。
ジャガラタ友の会
南洋商会の設立と事業拡大に伴い、日本全国から多くの青年たちがジャワに渡りました。近年になり、その偉大な事業を永く後世に伝えようと、全国組織の「ジャガラタ友の会」が設立されました。
そして昭和51年、この会の会員や有志により、市内上西山にある「小磯国昭の墓」の隣に、彼の胸像「堤林数衛翁頌徳碑」が建立されました。桂嶽寺脇の通称「西山の丘」と呼ばれる小高い場所から、彼は今も市内を見つめています。
本文は、広報しんじょう平成27年1月13日号特集:堤林数衛を知るより抜粋しました。
堤林数衛関係文書選輯

堤林数衛の功績をまとめた「堤林数衛関係文書選輯」が、籠谷直人京都大学教授と、台湾中央研究院台湾史研究所の鍾淑敏先生らの編さんにより刊行されています。
当時の写真や手紙、会社経営に関わる書類など、貴重な資料が収録されており、堤林が成したことの歴史的重要性を詳しく知ることができます。
刊行にあたって市に寄贈していただき、現在は市立図書館で貸し出しも行っております。
堤林数衛シンポジウムの開催
平成27年10月10日に、新庄市民文化会館で、堤林数衛の知識を深める催しが行われました。
籠谷直人京都大学教授による基調講演のほか、愛知県立大学客員研究員の泉川普氏、ジャワ経済史研究者の工藤裕子氏による研究発表や、パネルディスカッションが行われました。
堤林数衛シンポジウム1
堤林数衛シンポジウム2
堤林数衛シンポジウム3
関連リンク
- ふるさと歴史センター
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