
駒杵勤治(こまぎねきんじ)
1877年(明治10年)から1919年(大正8年)
新庄市(旧新庄町)小田島に生まれる。東京帝国大学(現東京大学)を卒業後、茨城県庁に迎えられ、数々の建築物の設計にあたった。なかでも、旧制土浦中学校本館と旧制太田中学校講堂は、国指定の重要文化財として保存されている。
洋風建築への意欲は、少年時代に山形県内の進歩的な建築の美しさに魅せられたからという。
1905年(明治38年)に退職後は、内務省に入って、伊勢神宮式年造営にかかわり、また海軍省では、佐世保鎮守府庁舎を設計。やがて福岡県で建築設計事務所を開設するが、肺結核のため42歳の若さで世を去った。
<新庄ふるさと歴史センター郷土人物館より>
駒杵勤治の生涯
若き建築の天才
駒杵勤治は1877年(明治10年)2月6日新庄藩士の子として、新庄市小田島町に生まれました。
彼は、旧制山形中学(現在の山形東高等学校)から、東京帝国大学(現在の東京大学)建築科へ進み、1902年(明治35年)12月18日に通常よりも早く卒業しました。
その後、直ちに茨城県庁に迎えられ、その頭脳と手腕を活かし、在任期間わずか2年の間に数々の建築物を設計しました。
茨城に残る近代建築とゴシック様式
当時の茨城県政では、教育と勧業に重点を置いていたため、駒杵の手により県立中学校が次々と建築されました。
中でも、旧制土浦中学校(現茨城県立土浦第一高等学校)と旧制太田中学校(現茨城県立太田第一高等学校)は国指定の重要文化財として保存されています。
彼の洋風建築は、少年時代の山形市内での先進的な建築物の美しさに魅せられたことや、東京駅などを建築したことで知られる辰野金吾氏と同じ東京大学工学部出身で、当時大学で教授をしていた辰野氏に建築を学んだことが影響しています。
注意:写真は旧制土浦中学校(現茨城県立土浦第一高等学校)本館
駒杵勤治が遺したもの

1905年(明治38年)3月に茨城県庁を退き内務省に入庁。技師として伊勢神宮式年造営に関わったほか、海軍省では佐世保鎮守府庁舎を設計しました。やがて、役人生活を辞めて福岡で設計事務所を開設し、独自の活躍をはじめましたが、肺結核に倒れ大正8年に42歳という若さでこの世をさりました。
注意:写真は当時の帝国海軍佐世保鎮守府庁舎
出典:海上自衛隊佐世保地方隊
参考資料
最上地域史研究会:最上地域史第10号「最上人物事典」(昭和62年発行)より本文抜粋
茨城県生活環境部生活文化課ホームページ:「輝く茨城の先人たち」駒杵勤治より本文抜粋
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