
瀬川章友(せがわのりとも)
1879年(明治12年)から1937年(昭和13年)
旧新庄藩士の由緒ある家に生まれる。幼少の頃から頭脳明晰で、県下一の成績を収め旧山形中学校(現:山形東高等学校)に編入する。
山形中学校時代の同郷には、後に共に大日本帝国陸軍のトップまで上り詰め、県出身で初の総理大臣となった小磯国昭がいた。
陸軍士官学校を首席で卒業し、その後に進んだ陸軍大学校も首席となり恩賜を授与されている。
その後、スイス駐在武官や士官学校長などを経て陸軍中将となるが、胃がんのため昭和13年に61歳でこの世を去る。
写真:最上地域出身者の学生寮「葛麓寮」での一枚、下段右が瀬川章友、下段左が小磯国昭
瀬川章友の生涯
天才、瀬川章友
瀬川章友は、1879年(明治12年)に旧新庄藩士の子として生まれました。
幼少の頃から頭脳明晰だった彼は、明治27年に県庁で行われた選抜学力試験でトップとなり、その後、旧山形中学校(現在の山形東高等学校)に編入し首席で卒業します。
この時、最上地域の学生たちは、「葛麓寮」という学生寮で生活をしていましたが、この時の同郷の同期には、後に同じく陸軍に進み、内閣総理大臣まで上り詰めた小磯国昭や、三菱銀行の取締役となった丸山英弥など、多くの優秀な人間がいました。瀬川と小磯は、新庄から仙台や日光などに旅行したこともある友人で、中学卒業後はともに陸軍士官学校へ入学します。
陸軍の双璧、新庄出身の二将軍
大正元年に陸軍大学校に進学した瀬川は、ここも首席で卒業し恩賜を授与されます。
そして、教育総監部員や陸軍大学教員、スイス駐在武官などを歴任、大佐時代には陸軍歩兵学校長、少将となって仙台歩兵第3旅団長、次いで陸軍士官学校長となりました。
1931年(昭和6年)小磯国昭と同じ時期に中将となり(小磯は8月、瀬川は12月)、熊本第6師団長となりました。
予備役となって晩年、病気で慶応病院に入院した彼は、当初胃潰瘍だと思っていたそうですが、たまたま病院内で「瀬川章友胃がん」という文字を見つけ、付添いの家族に「胃がんと言えば不治の病であるから、医療費をかけるには及ばない。退院しよう。」と物静かにさとすようにいったそうです。そして、昭和13年2月20日61歳でこの世を去りました。
彼は、軍籍にありましたが、心温和で高ぶることなく、物静かで誰にでも親しみ易い人であったと言われています。
またその経歴からもわかるように、軍政家でも軍略家でもなく、謀をめぐらすところの中にいて、周囲の人間を存分に活躍させることができる将軍であったそうです。
参考資料
最上地域史研究会:最上地域史第12号「最上人物事典」(平成元年)より本文抜粋
新庄市教育委員会かつろく風土記著者:笹喜四郎より本文抜粋
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